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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

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自説変更 月読による「なりすまし」 /20240512

ヤマトのはじめに尊ばれた3氏族は、穂積氏と磯城氏と葛城氏。

1.紀元前4・3世紀ごろ、唐古鍵に集落ができる(穂積氏)
2.淡路国・摂津国・紀伊国に、月読なる人々が入植
3.紀元3世紀初め、対馬海峡方面から入植した磯城氏が纏向を造成、翡翠産地(信越)から葛城氏を招聘する
4.3世紀中・後期、唐古鍵と纏向の双方向で婚姻を結ぶ
5.婚姻政策の結果、事代主と建御名方(瀛津世襲)が生まれる

纏向造成当初(2世紀後期・3世紀前期)の唐古鍵と纏向は対立したが、天穂日(安寧[3])と天稚彦(懿徳[4])の時代(3世紀中・後期)には関係改善に努めた。

唐古鍵は天照、纏向は素戔嗚
信越勢は高皇産霊、対馬海峡勢は神皇産霊
穂積氏は饒速日(宇摩志麻治)、葛城氏は天火明(天香山)

唐古鍵(穂積氏)の奈良盆地における権威が弱まった事件が、本伝の国譲り
信越勢(葛城氏)の奈良盆地における権威が弱まった事件が、書一の国譲り
対馬海峡勢(磯城氏)の奈良盆地における権威が弱まった事件が、書二の国譲り


ここまでは概ね従来の自説に沿う。
変更点は、国譲りを敢行した天照なり高皇産霊なりが、月読なる人々であること。

星神香香背男討伐に加勢した倭文氏は大阪平野(摂津国)が地盤と思われる。
孝元(磯城氏)に代わって奈良盆地に入った第十代纏向大王の母親は、阿波国ゆかりの伊香色謎である。

倭文氏・淡路国造・紀伊国造は神皇産霊の子孫なので、ルーツは北九州。
淡路島の五斗長垣内遺跡は朝鮮半島から鉄を仕入れている。潮流の激しい瀬戸内を渡るために、月の朔望を読む彼らが月読である。

古事記の月読が大宜都比売を殺める逸話は、和歌山平野(紀伊国)が対岸の徳島平野(阿波国)を侵略した物語だ。このあと葛城氏の分家である伊香色謎の一族が阿波国に入植した。

月読なる人々に囲われた葛城氏の分家が和珥氏だ。
和珥武振熊に討伐された両面宿儺は、越中国から飛騨国にかけて勢力を保持していた瀛津世襲に連なる人々(葛城氏近縁)である。


■ 月読なる人々が高皇産霊に成り代わる理屈。

本来の高皇産霊は翡翠産地の信越勢であり、纏向を造成した磯城氏に招聘されて奈良盆地へ移住した一族が葛城氏である。
よって見方によれば「葛城氏は高皇産霊」であり、別の見方では「葛城氏は素戔嗚(纏向)に包含される」といえる。

4世紀、月読なる人々は葛城氏を攻撃する。香香背男討伐、阿彦討伐、両面宿儺討伐、甘美内足尼排斥などが攻撃の成果だ。
月読なる人々の行動は、紀伊国が囲っている豊玉姫の子孫を推戴して葛城氏の嫡流に成り代わろうとしたものだ。豊玉姫は葛城氏のヒメである。

紀伊国の野望は4世紀後期頃、磯城氏(孝元[8])の国譲り(書二)で成就する。
これにより、紀伊国は完全に素戔嗚に成り代わる。
記紀神話では、遡って葛木彦こと瀛津世襲を排斥した逸話(逐降)の次の逸話(八岐大蛇退治)から、月読なる人々を素戔嗚として記す。

そして、本来の葛城氏のルーツである信越地方は高皇産霊なので、記紀神話は八岐大蛇退治よりまえの紀伊勢を高皇産霊と記した。


■ 月読なる人々が天照に成り代わる理屈

天岩戸隠れの原型になった逸話は、阿波国で観測した158年の日入帯食を擬人化したローカルな民話だ。純粋な太陽神が、記紀神話に転用されて皇祖神にされた。

記紀神話において、岩戸に隠れた天照は唐古鍵のことだが、天岩戸から出てきた天照は大綜杵の女である伊香色謎のことだ。
伊香色謎の母親である高屋阿波良姫は阿波国の女性と思われる。

記紀神話の天岩戸隠れは、天照(唐古鍵)が姿を消して昼が消え、常闇になったと記す。月は暗い空で輝く。
唐古鍵と纏向が衰退して、月読なる人々が猛威を振るった。

伊香色謎は阿波国出身であり、父親の大綜杵は大矢口宿祢(穂積氏祖)の子だ。
穂積氏は唐古鍵の有力氏族であるため、伊香色謎とその子(開化[9])を天照の再来に位置づけている。

ただし伊香色謎と開化[9]を推戴したのは月読なる人々である紀伊勢だ。第七段(天岩戸隠れ)書三は紀伊国と阿波国の良好な関係を記す。

日本書紀 第七段(天岩戸隠れ)一書第一
於是 天下恒闇 無復晝夜之殊 ――中略―― 故 即以石凝姥為冶工 採天香山之金 以作日矛 又 全剥真名鹿之皮 以作天羽韛 用此 奉造之神 是即 紀伊国所坐日前神也

天香山は葛城氏のことだ。
葛城氏は翡翠産地の豪族であり、翡翠は交易で鉄などの貴重品に替えられた。

鹿は丹波勢のトーテムだ。
丹波勢とは、3世紀末期に丹波へ移住した唐古鍵の人々のことだ。

日前神は紀伊国造家が奉斎する紀伊国一宮日前神宮のご神体(日像鏡・日矛鏡)だ。
伝承では、石凝姥が八咫鏡に先立って天照の姿を写しとり造ったとする。

以上を踏まえて、書一の逸話を読み解けば、

葛城氏の嫡流と唐古鍵の本流を犠牲にして、本来は月読である紀伊国が台頭した。
そして紀伊国台頭の勢いに乗じて、阿波国出身の人物を第二の天照に据えた。

となる。


■ なりすましの影響

天照を奪われた穂積氏は饒速日(宇摩志麻治)になる。
高皇産霊を奪われた葛城氏は天火明(天香山)になる。
素戔嗚を奪われた磯城氏のルーツである対馬海峡勢と、葛城氏のルーツである信越勢は海神(綿津見)になる。

関連して、事代主について。
日本書紀神代下第九段(国譲り)本伝の事代主は、海中に蒼柴籬をつくる。
籬(まがき)は竹や柴でできた垣根のこと。

日本書紀 神代下第九段(国譲り) 本伝
事代主神 謂使者曰 今 天神有此 借問之勅 我父 宜当奉避 吾 亦不可違 因於海中造八重蒼柴(柴 此云府璽)籬 踏船枻(船枻 此云浮那能倍) 而 避

垣根は屋敷や領地などの外周に設置して、土地の所有区域を明らかにする。
事代主は日本海を自分の領域にした。

これは、事代主が海神(綿津見)になったことを意味する。
唐古鍵と纏向が衰退(3世紀おわり~4世紀はじめ)して以降も存続できた氏族が事代主であり、海神族だ。命運を絶たれた者(瀛津世襲を含む)が建御名方だ。

つまり海神族は事代主の成れの果てであり、磯城氏や葛城氏の生き残りである。
また丹後の海部氏は、丹波へ移住した唐古鍵の本流の生き残りである。


■ 紀伊国の敵 吉備国

神武紀は、紀伊国の名草戸畔を討伐したと記す。
名草戸畔は第4の元伊勢である紀伊国の奈久佐浜宮にいたヒメ(巫女)だろう。
書二の大己貴である孝元[8](磯城氏)を追い払い、第3の元伊勢の倭国の伊豆加志本宮から地位を奪った。

第5の元伊勢が吉備国名方浜宮だから、木乃国奈久佐浜宮を潰したのは吉備国だ。
神武紀にて吉備国は、神武の兄の五瀬として描かれる。
吉備が雄略紀にて分割され、清寧紀に記す星川皇子の乱にて攻撃されたことを、五瀬が負った深手に例えている。


■ まとめ

月読であるはずの紀伊国やその属国の阿波国が、天照や素戔嗚や高皇産霊になりすますせいで記紀神話は難解になっている。

しかし日本書紀編纂者にはなりすましをよく思わない人物もいた。
月読のなりすましと思われる天照や高皇産霊は、逸話内のどこかで「天神」と表記されている。おそらく故意に区別したのだろう。

また紀伊国一宮伊太祁曽神社の祭神は、第八段書四と書五にて素戔嗚の息子と記される五十猛であり、素戔嗚ではない。記紀成立後の忌部氏の凋落ぶりとあわせて考えるに、他氏族から相当の反発があったのだろう。

* * *
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一書第四と第六の天孫降臨 /20240422

日本書紀神代下、第九段一書第三以降は国譲りを記さない。
このうち瓊瓊杵降臨の場面を描くのは一書第四と第六のみ。

一書第四の特徴
・高皇産霊が瓊瓊杵を降ろす。天照は登場しない。
・随伴は天忍日(大伴連遠祖)と天槵津大来目(来目部遠祖)。
・事勝国勝長狭(亦名鹽土老翁)と出会い、国をもらう。
・木花開耶姫は登場しない。

一書第四は鹽土老翁から国を譲り受けている。
大己貴の国譲りに続けて天孫降臨を記す本伝、書一、書二とは別の出来事であり、瓊瓊杵の正体も別人と考えられる。

鹽土老翁は第十段(海幸山幸)において、山幸に海底へ行くようアドバイスする。
神武紀においては東征前の神武に東に、東の良い土地に饒速日がいると教える。
よって鹽土老翁は太平洋側の神と推測する。

wikipedia「シオツチノオジ」によれば、鹽土老翁は猿田彦と同一視できるという。
猿田彦は一書第一にて、伊勢之狭長田五十鈴川上に至ると記される。

wikipedia > シオツチノオジ > 伝承
先に述べた通り、江戸時代には塩土老翁神は猿田彦、事勝国勝、岐神、興玉命、太田命と同体異名の神とされたことがあったが、特に猿田彦神との関係性について、鹽竈神社末社の鼻節神社(宮城県七ヶ浜町)の祭神が猿田彦神であること、また神田明神末社の籠祖神社(現・合祀殿)では猿田彦大神と鹽土翁神が共に祀られていることなどから、塩土老翁神は猿田彦神と関係の深い神であるということが指摘される。

伊勢外宮に豊受姫を遷座したのは雄略[21]とされる。
雄略の母親は息長氏であり、古事記の系譜で先祖を辿ると穂積氏の弟橘媛(日本武の妃)に辿りつく。よって雄略[21]は唐古鍵系、つまり天照の系譜である。

次世代の清寧[22]は葛城韓媛が生んだ雄略[21]の皇子だ。
葛城氏は纏向系、つまり素戔嗚の系譜である。

おそらく一書第四の瓊瓊杵の正体は清寧[22]だ。
木花開耶姫が登場せず、子の記述がないのは、清寧に子が無いからだろう。

雄略[21]の泊瀬朝倉宮は、奈良盆地の際の山裾にある。
そこから5キロほど西、神武[1]の磐余橿原宮に寄せて清寧[22]の磐余甕栗宮がある。

雄略[21]と清寧[22]の宮

雄略[21]の泊瀬朝倉宮は、グーグルマップによると、伝承地が3か所ある。
ほかの2か所は、東の山をもう少し上った場所にある。

瓊瓊杵の父である天忍穂耳が降臨しない経緯は、本伝と書一と書二に記される。
書四の瓊瓊杵こと清寧[22]の父である雄略[21]の宮が奈良盆地にあってはおかしいと考え、記紀編纂後の人々が盆地から遠ざけたのではなかろうか。

清寧[22]は、5世紀後期頃の人物と思われる。
猿田彦が登場する書一の国譲りは、4世紀はじめの纏向衰退を描いている。
よって書四の事勝国勝長狭(鹽土老翁)は、書一の猿田彦の子孫と考える。

ただし本伝の事勝国勝長狭と、書四の事勝国勝長狭(鹽土老翁)は別人と考える。
次に、一書第六。

一書第六の特徴
・天火明は瓊瓊杵の兄。
・高皇産霊の台詞「昔遣天稚彦於葦原中国……云々」
・高皇産霊が瓊瓊杵を降ろす。天照は登場しない(天忍穂根は冒頭に登場)
・木花開耶姫と出会い、二子(火酢芹と火折、亦號彦火火出見)を生む

瓊瓊杵の兄である天火明は瀛津世襲の一族であり、北陸地方の神だ。
高皇産霊が「昔」という天稚彦は、3世紀後期ごろの懿徳[3]に比定した。書六の天孫降臨は、そこから数世代が経過した年代の出来事と考える。

北陸出身の天皇というと、6世紀前期ごろの継体[26]だろう。
継体の母は余奴臣祖の阿那尓比弥であり、余奴臣は越前国の有力者と考えられる。
誓約の五男神が象徴する地域は、天忍穂耳を北陸方面、天穂日を山陰方面、天津彦根を淀川大阪湾、活津彦根を東海方面、熊野櫲樟日を紀伊沿岸部に比定した。
血筋ではなく出身地域から、継体[26]は書六の天忍穂耳に推定できる。

おそらく継体[26]の子のうち、子を儲けた宣化[27]か欽明[28]のどちらかが、書六の瓊瓊杵だろう。

第九段(天孫降臨)本伝は火闌降を隼人の祖と記し、第十段(海幸山幸)書二は火酢芹を隼人の祖と記す。ほかの日本書紀の逸話は、隼人との関係を記さない。
第九段一書第六の瓊瓊杵の子に隼人の祖はいないと解釈できる。

書六は北陸地方の正当性を描いていると見える。
そして継体[26]の系譜は、蘇我系の聖徳太子に関する記述が多い上宮記逸文による。
もとは、北陸三か国の国造である蘇我氏の正当性を示す逸話ではなかろうか。

対して書四は、伊勢に正当性を作り出そうとしているようだ。
天智の系譜を正当化するための逸話だろう。

ちなみに。
書三は瓊瓊杵の子(火明、火進(火酢芹)、彦火火出見)の誕生の場面のみ。
書五は瓊瓊杵の子(火明、火進、火折、彦火火出見)の誕生の場面のみ。
書七は瓊瓊杵の系譜の別パターンを簡潔に記す。
書八も瓊瓊杵の系譜の別パターンを簡潔に記す。

――― 告知 ―――

動画の新シリーズ移行に連動して、当ブログも仕切り直す予定です。
右往左往してきた過去の自説変更の変遷は収蔵庫に蓄積しておきます。

* * *

youtube動画 /20240407

新作にしてシリーズ最終回です。

#0015
スサノオ 山陰の大己貴 月読 八岐大蛇 ほか

Happy birthday ATOM.

――― 訂正 ―――

今回も大規模に持論を改定しました。大きな変更は、
武内宿祢は紀伊勢。
伊香色謎を葛城氏/尾張氏/和珥氏の系譜につらなる。
大物主を唐古鍵と纏向の融合した存在。
古事記もある程度は年代を揃えてある。
等です。ほかにも幾つか変更があります。

* * *

穂積氏と尾張氏と息長氏 /20240205

日本書紀前半の構成の詳細版を作成中。

日本書紀前半の構成 詳細

懿徳[4]と仲哀[14]は早逝してるので短くした。
ヤマト大王は女系継承との推測から、母系先祖で色分けした。

神功皇后は父系の「息長」ばかり吹聴されるが、母系は「葛城」である。
母の名は「葛城高顙媛」、母系の曾祖母の名は「当麻之咩斐」という。
垂仁7年の逸話に登場する「当摩蹶速」のいた当麻邑は、wikipediaによると現在の葛城市にある。

日本書紀 垂仁7年
七年秋七月己巳朔乙亥 左右奏言 当麻邑 有勇悍士 曰当摩蹶速 其為人也 強力以能毀角申鉤
wikipedia 当麻蹴速
地元の奈良県葛城市當麻町には、蹴速の屋敷跡があると言う地元伝承が残っている。

因みに。
当麻蹶速と野見宿祢の角力は、古事記の国譲りが記す建御名方と建御雷の相撲に通じる。
葛城国造剣根の祖の高皇産霊が《信越勢》であることの証左のひとつだ。

話を戻して。
欽明[29]敏達[30]の母系先祖は和珥氏である。
よって敏達[30]までは女系継承と考える。

続く蘇我系の用明[31]崇峻[32]推古[33]は母方の祖母が不明のため、女系か男系か判別不可能。
舒明[34]は母系先祖が伊勢の豪族であるため男系、もしくは実際には即位してなかったものを、天智[38]天武[40]の父だからと日本書紀編纂時にねじ込んだか。
皇極斉明[35,37]孝徳[36]の母方の祖母も不明。

丁未の乱(587年)山背大兄王襲撃(643年)乙巳の変(645年)などは女系男系が争点ではないか?

蘇我蝦夷の母は物部守屋同母妹の布都姫であり、女系継承ならば蘇我宗主には不適格である。
蘇我入鹿の母は物部守屋の姪の物部鎌姫であり、女系継承ならば蘇我宗主には不適格である。
女系継承ならば寧ろ、蘇我蝦夷は物部(弓削)守屋の正当な後継者になりえる。
天孫本紀にて物部鎌姫は「為参政奉斎神宮」とあり、入鹿の母は物部宗主と思われる。

守屋は蝦夷の父馬子と対立、丁未の乱(587年)に敗れる。
守屋と布都姫の母(蘇我蝦夷の母方の祖母)は弓削倭古の女の阿佐姫。
守屋は「弓削大連」を称し、子孫は弓削氏を名乗る。
宇佐八幡宮神託事件(769年)の道鏡は、物部守屋から始まる弓削氏である。

先代旧事本紀の物部氏の系図は、欝色雄・欝色謎・伊香色雄・伊香色謎など穂積氏を取り込んでいる。
瀛津世襲・世襲足媛・建額赤(津守氏)などは尾張氏の系図に取り込まれている。
先代旧事本紀の設定では、欝色雄祖先の宇摩志麻治と瀛津世襲祖先の天香語山は異母兄弟である。

記紀の神は原則として《地域勢力》であり、兄弟設定の背景には、勢力間の密な交流(因縁)があると考える。
欝色雄や伊香色雄の穂積氏は唐古鍵の首長氏族で、瀛津世襲の尾張氏(葛城氏)は纏向の首長氏族ではなかろうか?

乙巳の変(645年)、蝦夷入鹿父子の死をもって唐古鍵の宗家(女系)が終焉に至ったのでは?
だから天智[38]の諱は「葛城」というのでは?
天皇になろうとした道鏡は、唐古鍵勢力の宗主の末裔を自負していたのではなかろうか。

――― 2024/02/06 追記 ―――

息長氏/丹波/山代は、短絡に余りものを纏めたのではなく、神功の男系先祖に繋がりを見いだせるから纏めた。
また継体[26]の女系は山代、男系は息長氏と穂積氏に繋がる。

神功先祖
仲哀[14] 安康[20] 雄略[21] 継体[26]

葛城氏/瀛津世襲の尾張氏/和珥氏は、言うまでもなく女系の同族である。
おそらく《纏向の宗家》だろう。
対する《唐子鍵の宗家》は穂積氏/物部氏/息長氏と思われる。

日本書紀でも古事記でも、八岐大蛇を退治した素戔嗚は草薙剣を天照に献上する。
草薙剣は別名を天叢雲剣という。天孫本紀が天香語山の子の名を天村雲と記すことから《纏向の宗家》を象徴するものと推測する。
また、古事記の須佐之男は《纏向》、天照は《唐古鍵》に相当すると考える。

おそらく八岐大蛇退治のスサノオは、4世紀中期~後期の纏向勢力だろう。
八岐大蛇は唐古鍵勢力である。
天叢雲剣が八岐大蛇の尾にあるという描写は、丹波勢が纏向宗家出身の孝霊[7]を管理下に置いていたことを表すのだろう。孝霊の黒田庵戸宮は唐古鍵遺跡の西2kmほどにある。
天叢雲剣を天照に献上するという描写は、山陰勢の孝元[8]から穂積氏の開化[9]に代替わりしたことを表すのだろう。

――― 2024/02/08 追記 ―――

鹿は丹波の象徴と考えていたが、厳密には《唐子鍵の象徴》ではなかろうか。
入鹿の名前も唐古鍵の末裔を意識してのことでは?
対する《纏向の象徴》は鳥だろう。

――― 2024/02/10 追記 ―――

ハツクニシラススメラミコトの異名をもつ神武[1]と崇神[10]が時系列の折り返し点になっている。
もう1つ、小規模な折り返しが仲哀[14]と仁徳[16]の間にあり、そこは神功摂政と応神[16]である。

おそらく、漢風諡号の『神』の文字は《時系列の先頭》を意味する。

――― 2024/02/12 追記 ―――

天智[38]の父である舒明[34]の父系先祖は伊勢の豪族だ。
ヤマト建国神話における伊勢は、雄略[20]が伊勢外宮に豊受姫を遷座したくらいしか縁がない。
事実上、天智[38]から遡れる男系の皇祖だから、伊勢で天照を祀っているのだろう。

おそらく天智[38]は女系男子として即位している。
舒明[34]は、実際には即位してない。
地方豪族にすぎない父親の血筋が、天智[38]の即位を遅らせた要因だろう。

記紀が、皇位継承を男系と偽ったから、辻褄をあわせて伊勢が皇祖神を祀ることになった。
建国の神を拝むなら、伊勢より相応しい場所は多くある。

また、継体[26]も実際には即位してないと推測する。
継体[26]は、継承権のある尾張目子媛とのあいだに儲けた安閑[27]宣化[28]を即位させ、実権を握ったのだろう。
即位してないから、奈良盆地の北に住み続けたのか。
記紀が中央集権を謳うには、実権を握る継体[26]を天皇に数えないわけにいかなかったのでは?

――― 2024/03/06 追記 ―――

分類を変更。
「葛城と尾張と和珥」「山代と丹波」「穂積と息長」の3つに分ける。

神功の系図では、山代と丹波の先の母系先祖が和珥氏になっている。
天稚彦(懿徳天皇)の《婚姻による奈良盆地統一政策》の成果かもしれない。

――― 2024/03/30 追記 ―――

崇神[10]垂仁[11]の色を変更。

先代旧事本紀が記す崇神の母方の祖母、高屋阿波良姫について《葛城/尾張/和珥》の女性とする説があるため、初期値とする。
具体的には、高屋大分国造祖の建弥阿久良(天孫本紀によれば建戸米の子)や、阿波国造家(高皇産霊9世孫)との関係が指摘されている。
建弥阿久良を神八井耳の子孫とする説もある(参考:日本辞典>大分国造)。葛城氏の始まりを媛踏韛五十鈴媛とみる持論の証左になりえよう。

垂仁の母方の祖父、大彦は北陸道へ派遣され、息子の名前が武渟川別で「ヌナカワ」を含むことから、信越勢の《葛城/尾張/和珥》の女性を妻にして子を儲けた可能性が高いとみて、初期値とする。

* * *