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前回の要点:
国譲りの大己貴は、本伝は丹波大己貴、一書第二は杵築大己貴のこと。
共通して登場する天穂日および経津主と武甕槌は杵築大己貴の国譲りに関与した。丹波大己貴の国譲りには関与してないが、本伝にも登場させることで二勢力の大己貴を同一存在であるかのように偽装した。
建御名方は杵築大己貴の子ではない。
古事記が記す建御名方と武甕槌の勝負は、大己貴の国譲りとは一切関係ない関東で起きた抗争が元になっている。
自宅へ来訪して鳴く使者の鳥に矢を撃つエピソードの類似性から、天稚彦と兄磯城は同一と推測する。
物語として、天稚彦に次ぐ重要人物は味耜高彦根であり、兄磯城に次ぐ重要人物は弟磯城だ。しかし味耜高彦根と弟磯城に類似性はない。
味耜高彦根は天稚彦の友人であり、容姿が天稚彦に似ていた。天稚彦の葬儀に弔問したところ遺族に故人と間違われて腹を立て、喪屋を破壊する。
弟磯城は、兄磯城の次に八咫烏の訪問を受けて神武の召喚に応じ、その場で兄磯城の謀略を密告する。
しかし先代旧事本紀巻五の天孫本紀が記す物部氏の祖には、味耜高彦根と同じ意味を持つと推測される名前「味饒田」があり、その弟である「彦湯支」は出雲色多利姫とのあいだに一男を儲けたとある。名前から推測して子は出雲醜大臣だろう。
天孫本紀の饒速日を祖とする系図の序盤は、天香山と宇摩志麻遅を異母兄弟に設定していることからして真実味が薄い。この系図は、神武以前の畿内に存在した有力氏族を多く取り込んでいると考える。よって味饒田と彦湯支も、近畿地方の有力氏族と推測する。
出雲を名前に含む妻子をもつ彦湯支(弟)が、天稚彦であり兄磯城だろう。
そして同じ意味の名前を持つ味饒田(兄)が、味耜高彦根であり弟磯城だろう。
また、この系図には「シコ(醜、色)」を含む五つの名前、出雲醜大臣、鬱色雄、鬱色謎、伊香色雄、伊香色謎がある。この系図のなかに葦原醜男が存在する可能性があると考える。
神代上第八段(八岐大蛇)一書第六で大国主の別名のひとつとされる葦原醜男は、古事記によれば素戔嗚の娘である須世理毘売を妻にした。
神武(淡路勢)が弟磯城に兄磯城を説得させるも成果は上がらず、武力制圧に意見が傾いていた。そこへ椎根津彦が共闘を申し出る。
「出自忍坂(忍坂より出る)」と言うのだから、このとき椎根津彦は忍坂にいたと考えられる。忍坂邑は、道臣が国見岳八十梟帥の残党を騙し討ちにするために大室を造り酒宴を開いた場所だ。
国見岳八十梟帥は越前素戔嗚であり八千矛だ。道臣が討伐した残党は久比岐近辺に入り込んだ越前勢だろう。よって忍坂は高志東部、加賀・能登・越中あたりにあると推測する。
坂は越すものなので、高志と掛けているのだろう。
献策どおり椎根津彦が墨坂の障害を排除して高志から南下、淡路から進軍する神武(淡路勢)との共闘により、兄磯城(畿内)を挟み撃ちにする構図が想定できる。
天穂日および経津主と武甕槌は、丹波大己貴の国譲りには関与しなかった。
一方、天稚彦と味耜高彦根および事代主は丹波大己貴の国譲りに関与したと考える。
事代主は大己貴に避けるよう勧め、海中に八重の蒼柴籬を造って船枻を踏み、自分も避ける。この「避ける」の語感が、国譲りを迫られた場面で用いるのは適切でないように感じられる。
しかし神武東征に重ねて考察すると、兄磯城討伐および長髄彦討伐へ向かう神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)の軍勢を「避ける」と解釈できる。
逐降の敗者だった越前八千矛の後裔である丹波大己貴と事代主が、勝者たる淡路勢と久比岐勢に対して協調路線をとり、その後のヤマトに参画することになった。
これが丹波大己貴の国譲りだろう。
長髄彦は饒速日の義理の兄であり部下だが、神武を天神の子と認めながらも退かず戦いを続行したため、饒速日が長髄彦を誅して神武に帰順した。神武はこれを手柄として饒速日を寵する。
物語としては二度目の vs.長髄彦戦だ。物語構成の観点からみた長髄彦は、淡路勢と饒速日勢を神武という単一存在に集約させる設定を補強している。
長髄彦は近畿の抵抗勢力だ。
神武以前の畿内の有力氏族には葦原醜男がいる。
和歌山平野にある伊太祁曽神社では素戔嗚の子である五十猛を祀る。伊太祁曽神社の西方向4km余りに五瀬(長髄彦との初戦で逝去した神武の長兄)を祀る竈山神社、竈山神社の北方向3kmほどに神代紀第七段(逐降と天岩戸)一書第一が日矛と日前を祀ると記す日前神宮・國懸神宮がある。
紀伊国一宮 伊太祁曽神社
紀伊国一宮 日前神宮・國懸神宮
長髄彦は、葦原醜男と須世理毘売の子孫かもしれない。
和歌山平野は紀淡海峡を挟んで淡路島に面する。
東征の旅程を無いものとして考察すると和歌山平野は、淡路 vs. 紀伊の戦場になりやすく、淡路勢を迎え撃つ在地勢力が、伊勢からの増援に背後を突かれれば一溜まりもない土地だろう。
饒速日勢が伊勢から和歌山平野へ向かうなら、陸路で菟田を経由したのち紀ノ川(吉野川)を下るコースが想定できる。
実際の兄猾討伐はこのタイミングだったかもしれない。
長髄彦は饒速日に誅殺され、瀬戸内を通して九州-高志を結ぶ交易路の安全が確保された。大和は『道』から始まったと云えよう。