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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第七章 畿内平定

前回の要点:
国譲りの大己貴は、本伝は丹波大己貴、一書第二は杵築大己貴のこと。
共通して登場する天穂日および経津主と武甕槌は杵築大己貴の国譲りに関与した。丹波大己貴の国譲りには関与してないが、本伝にも登場させることで二勢力の大己貴を同一存在であるかのように偽装した。
建御名方は杵築大己貴の子ではない。
古事記が記す建御名方と武甕槌の勝負は、大己貴の国譲りとは一切関係ない関東で起きた抗争が元になっている。


味饒田と彦湯支

自宅へ来訪して鳴く使者の鳥に矢を撃つエピソードの類似性から、天稚彦と兄磯城は同一と推測する。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝
於是 高皇産靈尊 賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢 以遣之 此神亦不忠誠也 來到 即娶顯國玉之女子下照姬 亦名高姬 亦名稚國玉 因留住之曰 吾亦欲馭葦原中國 遂不復命 是時 高皇産靈尊 怪其久不來報 乃遣無名雉伺之 其雉飛降止 於天稚彥門前所植 植 此云多底婁 湯津杜木之杪 杜木 此云可豆邏也 時 天探女 天探女 此云阿麻能左愚謎 見而謂天稚彥曰 奇鳥來 居杜杪 天稚彥 乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓天羽羽矢 射雉 斃之 其矢 洞達雉胸 而 至高皇産靈尊之座前也 時 高皇産靈尊見其矢曰 是矢 則昔我賜天稚彥之矢也 血染其矢 蓋 與國神相戰而然歟 於是 取矢還投下之 其矢落下 則中天稚彥之胸上 于時 天稚彥 新嘗休臥 之時也 中矢立死 此世人所謂反矢 可畏之緣也

於是 高皇産霊尊 天稚彦に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜る 以て之に遣わす 此の神も亦た不忠誠也 来て到る 即ち顕国玉の女子の下照姫を娶る 亦の名は高姫 亦の名は稚國玉 因て留まり之に住み曰く 吾も亦た葦原中国を馭(統)べるを欲する 遂に復命せず 是時 高皇産霊尊 久しく報せの来ぬ其れを怪しむ 乃ち無名雉(ナナシキジ)を遣わし之を伺う 其の雉は飛び降り止まる 天稚彦の門前の所に植わる 植 此れ云う多底婁 湯津杜木(桂の木)の杪(こずえ、梢)に 杜木 此れ云う可豆邏也 時 天探女 天探女 此れ云う阿麻能左愚謎 見て天稚彦に謂い曰く 奇鳥が来た 杜(桂)の杪(梢)に居る 天稚彦 乃ち高皇産霊尊が賜わる所の天鹿兒弓と天羽羽矢を取る 雉を射る 之を斃す 其の矢 雉の胸を洞(つらぬ)き達する 而 高皇産霊尊の座前に至る也 時 高皇産霊尊は其の矢を見て曰く 是の矢 則ち昔に我が天稚彦に賜う之矢也 血に染まる其の矢 蓋 国つ神と相い戦いて然る歟 於是 取りし矢を還し投下する之 其の矢が落下する 則ち天稚彦の胸上に中る 于時 天稚彦 新嘗(にいなめ)し休み臥せる 之の時也 矢に中り立(タチトコロ)に死ぬ 此れ世人の謂う所の反矢(かえしや) 畏る可き之の縁也

神武[1]紀戊午年 冬 十有一月癸亥朔巳己
皇師大舉將攻磯城彥 先遣使者 徵兄磯城 兄磯城不承命 更遺頭八咫烏召之 時 烏到其營 而 鳴之曰 天神子召汝 怡奘過 怡奘過 過 音倭 兄磯城忿之曰 聞天壓神至 而 吾爲慨憤 時 奈何 烏鳥若此惡鳴耶 壓 此云飫蒭 乃彎弓射之 烏即避去

皇師(皇軍)は将に磯城彦を攻めんと大挙する 先ず使者を遣わし 兄磯城を徵(め)す 兄磯城は命を承けず 更に頭八咫烏を遺わし之を召す 時 烏は其の営に到る 而 之を鳴き曰く 天神の子が汝を召す 怡奘過(いざわ) 怡奘過 過 音倭 兄磯城は之に忿(いか)り曰く 天の壓(屈服させる)神が至るを聞く 而 吾は憤慨を為す 時 奈何(いかん) 烏鳥は此の若く悪しく鳴く耶 壓 此れ云う飫蒭 乃ち弓を彎(ひ)き之を射る 烏は即ち避け去る

物語として、天稚彦に次ぐ重要人物は味耜高彦根であり、兄磯城に次ぐ重要人物は弟磯城だ。しかし味耜高彦根と弟磯城に類似性はない。

味耜高彦根は天稚彦の友人であり、容姿が天稚彦に似ていた。天稚彦の葬儀に弔問したところ遺族に故人と間違われて腹を立て、喪屋を破壊する。
弟磯城は、兄磯城の次に八咫烏の訪問を受けて神武の召喚に応じ、その場で兄磯城の謀略を密告する。

しかし先代旧事本紀巻五の天孫本紀が記す物部氏の祖には、味耜高彦根と同じ意味を持つと推測される名前「味饒田」があり、その弟である「彦湯支」は出雲色多利姫とのあいだに一男を儲けたとある。名前から推測して子は出雲醜大臣だろう。

先代旧事本紀天孫本紀 宇摩志麻遅から饒速日七世孫伊香色雄まで系図起こし

天孫本紀の饒速日を祖とする系図の序盤は、天香山と宇摩志麻遅を異母兄弟に設定していることからして真実味が薄い。この系図は、神武以前の畿内に存在した有力氏族を多く取り込んでいると考える。よって味饒田と彦湯支も、近畿地方の有力氏族と推測する。

出雲を名前に含む妻子をもつ彦湯支(弟)が、天稚彦であり兄磯城だろう。
そして同じ意味の名前を持つ味饒田(兄)が、味耜高彦根であり弟磯城だろう。

また、この系図には「シコ(醜、色)」を含む五つの名前、出雲醜大臣、鬱色雄、鬱色謎、伊香色雄、伊香色謎がある。この系図のなかに葦原醜男が存在する可能性があると考える。
神代上第八段(八岐大蛇)一書第六で大国主の別名のひとつとされる葦原醜男は、古事記によれば素戔嗚の娘である須世理毘売を妻にした。

忍坂

神武(淡路勢)が弟磯城に兄磯城を説得させるも成果は上がらず、武力制圧に意見が傾いていた。そこへ椎根津彦が共闘を申し出る。

神武[1]紀戊午年 冬 十有一月癸亥朔巳己
乃使弟磯城開示利害 而 兄磯城等猶守愚謀 不肯承伏 時 椎根津彥 計之曰 今者宜先遣我女軍 出自忍坂 道虜見之 必盡鋭而赴 吾則駈馳勁卒 直指墨坂 取菟田川水 以灌其炭火 儵忽之間 出其不意 則破之必也 天皇善其策 乃出女軍 以臨之 虜謂大兵已至 畢力相待

乃ち弟磯城に利害を開示せ使める 而 兄磯城等は猶も愚謀を守る 肯(うなず)きも承伏もせず 時 椎根津彦 之を計り曰く 今は先ず我を女軍に遣わすが宜しい 忍坂より出る 道の虜(敵)は之を見る 必ず盡(ことごと)く鋭くして赴く 吾は則ち勁(つよ)い卒で駆け馳せる 直ぐ墨坂を指す 菟田川の水を取る 以て其の炭火に灌ぐ 儵忽(しゅっこつ、短時間)の間 不意に其れへ出る 則ち之を破るは必ず也 天皇は其の策を善しとする 乃ち女軍に出る 以て之に臨む 虜(敵)は大兵が已に至ると謂(おも)う 畢力(全力)が相待する 【要注意:女軍の解釈が異なる説が主流】

「出自忍坂(忍坂より出る)」と言うのだから、このとき椎根津彦は忍坂にいたと考えられる。忍坂邑は、道臣が国見岳八十梟帥の残党を騙し討ちにするために大室を造り酒宴を開いた場所だ。

国見岳八十梟帥は越前素戔嗚であり八千矛だ。道臣が討伐した残党は久比岐近辺に入り込んだ越前勢だろう。よって忍坂は高志東部、加賀・能登・越中あたりにあると推測する。
坂は越すものなので、高志と掛けているのだろう。

献策どおり椎根津彦が墨坂の障害を排除して高志から南下、淡路から進軍する神武(淡路勢)との共闘により、兄磯城(畿内)を挟み撃ちにする構図が想定できる。

神武[1]紀戊午年 冬 十有一月癸亥朔巳己
先是 皇軍攻必取戰必勝 而 介冑之士 不無疲弊 故 聊爲御謠 以慰將卒之心焉 謠曰

先是 皇軍の攻めは必ず戦いを取り必ず勝つ 而 介冑(甲冑)の士 疲弊は無からず 故 聊(かりそめ)に御謠を為す 以て将卒の心を慰める焉 謠い曰く

―― 中略(歌) ――

果 以男軍越墨坂 從後 夾擊破之 斬其梟帥兄磯城等

果たして 以て男軍が墨坂を越す 従後 夾(はさ)み之を撃破する 其の梟帥(たける、勇猛な族長)兄磯城等を斬る

丹波の国譲り

天穂日および経津主と武甕槌は、丹波大己貴の国譲りには関与しなかった。
一方、天稚彦と味耜高彦根および事代主は丹波大己貴の国譲りに関与したと考える。

事代主は大己貴に避けるよう勧め、海中に八重の蒼柴籬を造って船枻を踏み、自分も避ける。この「避ける」の語感が、国譲りを迫られた場面で用いるのは適切でないように感じられる。

神代下第九段 国譲りと天孫降臨 本伝
故 以熊野諸手船 亦名天鴿船 載使者稻背脛 遣之 而 致高皇産靈尊勅於事代主神 且問將報之辭 時 事代主神 謂使者曰 今 天神有此借問之勅 我父宜當奉避 吾亦不可違 因於海中造八重蒼柴 柴 此云府璽 籬 蹈船枻 船枻 此云浮那能倍 而 避之

故 熊野諸手船を以て 亦の名を天鴿船 使者の稲背脛を載せる 之に遣わす 而 事代主神に高皇産霊尊の勅を致す 且つ将報の辞を問う 時 事代主神 使者に謂い曰く 今 天神は此の借問(しゃくもん、試しに問う)の勅有り 我が父は当に奉り避けるが宜しい 吾も亦た違う可からず 因て海中に八重の蒼柴 柴 此れ云う府璽 籬を造る 船枻(せがい、舷に渡した板)を踏む 船枻 此れ云う浮那能倍 而 之を避ける

しかし神武東征に重ねて考察すると、兄磯城討伐および長髄彦討伐へ向かう神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)の軍勢を「避ける」と解釈できる。

逐降の敗者だった越前八千矛の後裔である丹波大己貴と事代主が、勝者たる淡路勢と久比岐勢に対して協調路線をとり、その後のヤマトに参画することになった。
これが丹波大己貴の国譲りだろう。

長髄彦

長髄彦は饒速日の義理の兄であり部下だが、神武を天神の子と認めながらも退かず戦いを続行したため、饒速日が長髄彦を誅して神武に帰順した。神武はこれを手柄として饒速日を寵する。

物語としては二度目の vs.長髄彦戦だ。物語構成の観点からみた長髄彦は、淡路勢と饒速日勢を神武という単一存在に集約させる設定を補強している。

長髄彦は近畿の抵抗勢力だ。
神武以前の畿内の有力氏族には葦原醜男がいる。

和歌山平野にある伊太祁曽神社では素戔嗚の子である五十猛を祀る。伊太祁曽神社の西方向4km余りに五瀬(長髄彦との初戦で逝去した神武の長兄)を祀る竈山神社、竈山神社の北方向3kmほどに神代紀第七段(逐降と天岩戸)一書第一が日矛と日前を祀ると記す日前神宮・國懸神宮がある。

長髄彦は、葦原醜男と須世理毘売の子孫かもしれない。

和歌山平野は紀淡海峡を挟んで淡路島に面する。
東征の旅程を無いものとして考察すると和歌山平野は、淡路 vs. 紀伊の戦場になりやすく、淡路勢を迎え撃つ在地勢力が、伊勢からの増援に背後を突かれれば一溜まりもない土地だろう。

饒速日勢が伊勢から和歌山平野へ向かうなら、陸路で菟田を経由したのち紀ノ川(吉野川)を下るコースが想定できる。
実際の兄猾討伐はこのタイミングだったかもしれない。

長髄彦は饒速日に誅殺され、瀬戸内を通して九州-高志を結ぶ交易路の安全が確保された。大和は『道』から始まったと云えよう。

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