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対馬周辺を地図で眺めると、対馬は朝鮮半島との中継点として天照勢(北九州)も利用したはずと思う。よって対馬=素戔嗚勢とは云えないのだろう。対馬には天照と素戔嗚の二勢力が存在していた、あるいは中立勢力だったと見るべきかもしれない。
とすると、天照勢は北九州が主体だからいいだろうが、問題は素戔嗚だ。素戔嗚勢も他に主体となる地域があるのではと考えてみると。
安直ではあるが、任那・狗邪韓国が思い浮かぶ。
狗邪韓国は魏志倭人伝に記されている朝鮮半島南部に存在した倭国の領土だ。
任那も朝鮮半島南部に存在した倭国の領土であり、日本の資料に見られる呼称だ。
朝鮮半島南部には前方後円墳が、下記のPDFによれば2010年の時点で13基が確認されている。いずれも5世紀末から6世紀前半の築造と目されている。
九州国際大学学術成果リポジトリ 朝鮮半島南部に倭人が造った前方後円墳 : 古代九州との国際交流
任那は562年(欽明[29])新羅によって滅亡させられた。
また663年(天智[38])白村江の戦いに敗れた日本は、朝鮮半島における権益を完全に失ったと考えられている。
刀剣ワールド 日本史/合戦・歴史年表 飛鳥時代「白村江の戦い」
日本書紀が成立した720年の情勢が、記紀神話に反映されたのではないか。
はじめに素戔嗚を根国へ逐いはらうと決めたのは伊弉諾・伊弉冉だ。北九州勢を指す天照より上の二神の意思である。
これは、防人が東国から徴兵・派遣されたこととも関係するのだろう。
コトバンク 防人
北九州勢は長く朝鮮半島と交易していた。
防人の矛先は唐・新羅だけではなく、北九州勢にも向いていたのではないか。新羅または百済の残党と北九州勢が通じる恐れを懸念したほか、交易により北九州勢が富を得ることも封じたかったのではなかろうか。
そのために、朝鮮の権益を放棄することは伊弉諾・伊弉冉の意思であるとした。
任那・狗邪韓国は小国の集まりだという。
そのなかの一部の国が、婚姻により出雲と融和して高志へ侵攻した乱暴者の素戔嗚ではないかと推測する。