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大和の磯城氏が皇統のルーツなら、なぜ神武と敵対するのか。
この問題に対し、日本書紀は二種類の解決策を提示していると思う。この二種類は異なる考え方をしており、まったくの別物だ。
一種類めは、親戚説。
高倉山で物見した神武が夢で天神の訓を得た翌日、弟猾が夢の訓と同様の進言を奏じ、そこで磯城八十梟帥に言及する(※)。
倭國磯城邑 有磯城八十梟帥 又高尾張邑 或本云葛城邑也 有赤銅八十梟帥 此類皆欲与天皇距戰 臣 竊爲天皇憂之
倭国磯城邑 磯城八十梟帥有り 又 高尾張邑 或る本に云う葛城邑也 に赤銅八十梟帥有り 此の類は皆が天皇と距(へだた)り戦を欲する 臣 窃(ひそ)かに天皇の為に之を憂う
弟猾は、磯城八十梟帥が居る磯城邑は倭国にあると言う。
どうやら一般的には、倭国は広く北九州から大和を含み、なんなら倭氏の源流である青海氏の居る久比岐までも含むと解釈するらしい。
だが倭国は北九州のことで、近畿とは区別する考え方もある。この文脈でわざわざ倭国と付ける意味を考えると、区別しているように思う。
北九州に磯城邑が存在するならば。
記紀神話の設定では、神武は九州から近畿に来た。神武の親戚の住む磯城邑が九州に存在したとしても設定に齟齬はない。むしろ九州に皇統のルーツがある設定を補強するだろう。
つまり九州の磯城邑にいる同族の兄磯城は、神武と対立して討伐され、神武に恭順した弟磯城の氏族がのちに大和へ移住したという設定だ。
また厳密には。
弟猾の発言は「倭國磯城邑 有磯城八十梟帥」であり、兄磯城が倭国の磯城邑に居るとは言ってない。磯城八十梟帥を兄磯城と同一視するのは読者の脳内だ。
これは、虚偽の設定に向けられる反発を回避するための小細工かもしれない。
二種類めは、神武は磯城氏ではない説。
おそらく、こちらが史実。
丹生川上の祭事により、神武の身に高皇産霊が憑く。
時 勅道臣命 今 以高皇産靈尊 朕親作顯齋 顯齋 此云于圖詩怡破毗 用汝爲齋主 授以嚴媛之号
時 道臣命に勅する 今 高皇産霊尊を以て 朕は親(みずか)ら顯斎(うつしいわい、人間を神に見立てる)を作る 顯斎 此れ云う于圖詩怡破毗 汝を用い斎主と為す 以て厳媛の号を授ける
この祭事で神武は戦勝を祈る。
想定する敵は、物語の構成から推測して、高倉山の物見で言及された国見岳の八十梟帥と女坂男坂墨坂、兄磯城だろう。
天皇陟彼菟田高倉山之巓 瞻望域中 時 國見岳上 則有八十梟帥 梟帥 此云多稽屢 又 於女坂置女軍 男坂置男軍 墨坂置焃炭 其女坂男坂墨坂之号 由此而起也 復 有兄磯城軍 布滿於磐余邑 磯 此云志
天皇は彼の菟田の高倉山の巓(いただき)に陟(のぼ)る 域中を瞻望(せんぼう、遠く見渡す)する 時 国見岳の上 則ち八十梟帥有り 梟帥 此れ云う多稽屢 又 女坂に女軍を置く 男坂に男軍を置く 墨坂に焃炭(おこしずみ)を置く 其の女坂男坂墨坂の号 此の由にして起こる也 復た 兄磯城軍有り 磐余邑に布し満ちる 磯 此れ云う志
これらの敵は、神武自身に憑依させた高皇産霊の力で討伐した。
国見岳の八十梟帥に相当するのは神逐の素戔嗚だ。そして神逐を遂行したのは淡路勢と久比岐勢だろう(過去記事:国見岳の八十梟帥=福井平野の素戔嗚)。
したがって高皇産霊を憑依させた神武とは淡路勢であると推測する。