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前回の要点:
丹波では協調派と対立派で意見が割れていた。
九州から来た武振熊が仲哀庶子の忍熊王を討伐して以降、丹波は衰退する。九州は翡翠産地に入り込んだ丹波の血筋も排除した。これが両面宿儺であり、椎根津彦嫡流の久比岐青海氏は消失する。この抗争の敗者が大物主であり、祭主の三輪氏は久比岐青海氏の流れを汲む。
崇神は個人としても勢力としても実在しない。
中臣氏案件の「天兒屋」「武甕槌」「豊城入彦・八綱田・御諸別」は敵対勢力。
越中西部の首長が観松彦・観松姫であり、事代主後裔にあたる。御間城姫は大彦と越中西部の女性のあいだの子で、観松姫であり、綏靖[2]皇后の五十鈴依媛でもある。
前回の要点:
淡路の大彦を夫にした久比岐の女性が武渟川別を生む。
大彦が初代神武天皇で、武渟川別が第二代綏靖天皇(神渟名川耳天皇)。
椎根津彦嫡流の久比岐青海氏から分家して近畿へ移住した人々が倭氏。
饒速日は伊勢津彦であり、科野へ移住した。
第三代安寧天皇から第九代開化天皇までは神武(大彦)の子孫ではないが、ヤマト建国神話で活躍した実在の人物が列記されている。
前回の要点:
天稚彦=兄磯城=彦湯支。味耜高彦根=弟磯城=味饒田。
神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)が共闘して兄磯城を挟み撃ちにする。丹波大己貴の国譲りとは、このとき淡路・久比岐との対立を避けて素通りさせたこと。
淡路勢と対立する長髄彦は葦原醜男と須世理毘売の子孫。
淡路 vs.畿内の主戦場は和歌山平野。
修正前:長髄彦 ……畿内勢
修正後:長髄彦 ……紀伊勢
現在、これまでの考察をまとめ中なのだが、新たな方向性が見えてしまったので早くも修正。小さな変更のように見えるけど、影響はデカい。
前回の要点:
国譲りの大己貴は、本伝は丹波大己貴、一書第二は杵築大己貴のこと。
共通して登場する天穂日および経津主と武甕槌は杵築大己貴の国譲りに関与した。丹波大己貴の国譲りには関与してないが、本伝にも登場させることで二勢力の大己貴を同一存在であるかのように偽装した。
建御名方は杵築大己貴の子ではない。
古事記が記す建御名方と武甕槌の勝負は、大己貴の国譲りとは一切関係ない関東で起きた抗争が元になっている。