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先だって一応の完成をみた初期天皇の活動年代表をもとに、自説を変更する。
今後はこの年代表が新たな自説の核になる、と思う。
八岐大蛇伝承のもとになった出来事は、孝元[8]の近畿進出。
孝元[8]=武内宿祢=杵築大己貴。山陰勢。
四世紀中期か後期、神功(筑紫)の支援により山陰勢が中部日本海側を攻撃、勝利して大王位につく。
八岐大蛇は、頭の一つ一つが高志と丹波の豪族。
股が八つあれば頭は九つ。八人の豪族が討伐され、一人が生き残る。
頭の内訳については思案中。
生き残った頭の候補には、継体[26]の先祖や、仁徳即位前には屯田で揉めながら仁徳晩年まで生存した額田大中彦が考えられる。
討伐された頭の候補には、忍熊王、麛坂王、菟道稚郎子、大山守王、両面宿儺など。ただし、両面宿儺=忍熊王+麛坂王である可能性が濃厚。
八岐大蛇は、先代大王孝霊[7](丹波勢)に連なる中部日本海側の豪族。
奇稲田姫は先々々代大王孝昭[5](信越勢)の子孫。
八岐大蛇を退治した素戔嗚が山陰勢なので、逸話の舞台を出雲国簸之川上にしているが、実際は近畿地方で起きた事変。
それから、草薙剣。
日本武の逸話は景行[12]紀にあり、このときの大王は孝霊[7]である。
八岐大蛇退治のもとになった事変は、これよりあとの出来事だ。
つまり、草薙剣は丹波勢の宝物だった。
なお前回、天照の筑紫勢と高皇産霊の信越勢は敵対していたと書いたが、これも改める。八岐大蛇伝承では、山陰の素戔嗚は信越の奇稲田姫を丁重に扱っている。丹波勢とは敵対したが、信越勢に対しては友好的だったと思われる。