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前回の要点:
狭穂彦=阿彦、狭穂姫=支那夜叉、誉津別=支那太郎、高倉下嫡流=天津甕星。
草薙剱は越前素戔嗚から子孫の丹波大己貴へ渡り、阿彦討伐に使われた。
同じ頃、科野と関東が争い、饒速日勢が科野を援けて関東勢を退けた。しかし記紀はなぜか八綱田(関東勢)が狭穂彦を討伐したと記して、丹波の勝利を横取りしている。
伊弥頭(越中西部)・三国・江沼(越前)国造は蘇我氏であり、上宮記は凡牟都和希王が継体[26]の祖と記す。
神代下第十段 海幸山幸:
火闌降(海幸)と彦火火出見(山幸)の兄弟が試しに互いの幸を交換したところ失敗。兄は借りた弓矢を返したが、弟は釣針を失くし返せない。返却要求する兄に困っている弟を塩土老翁が助け、海神の宮へ行かせる。海神は客人の事情を聞き、鯛の口に釣針を見つける。彦火火出見は豊玉姫を娶り三年を海宮で過ごす。帰郷するとき海神は彦火火出見に釣針と潮満瓊と潮涸瓊を授け、兄を降伏させる方法を教える。また豊玉姫は妊娠を告げ、産屋を作り待てと言う。戻った彦火火出見は海神の教えに遵って兄を服させる。約束どおり豊玉姫が妹の玉依姫を伴い来る。見るなと告げて産屋に入るが、彦火火出見はこれを覗く。豊玉姫は龍(鰐)の姿だった。恥じて海の道を閉ざし帰ってしまう。久しくのち彦火火出見は崩じる。
(1)越前素戔嗚の嫡流として草薙剱を保有していた。
(2)淡路勢と久比岐勢による兄磯城討伐のときは「避け」て静観した……国譲り。
(3)饒速日勢の加勢もあって畿内を掌握した淡路勢と久比岐勢が丹波に恭順を求め、丹波勢は協調派と対立派に分かれた……出雲振根。
(4)一旦は協調派でまとまり、日葉酢媛が垂仁妃になる。
(5)垂仁の跡目争いで皇后狭穂姫の越中と対立。戦争になり勝利する。久比岐勢が丹波勢を受け入れ、丹波勢が高志を掌握する。
(6)九州へ出兵して熊襲梟帥、川上梟帥を討つ……景行、日本武。
(7)再び熊襲討伐に出るが敗北……仲哀。
(8)神功皇后の命を受けた武内宿祢と武振熊(九州勢)が、仲哀庶子の忍熊王を討つ。以降、丹波勢は衰退する。
(9)丹波を受け入れた久比岐勢も武振熊(九州勢)に討伐される……両面宿儺。
(10)大物主として三輪山に祀られる。
熊襲は九州南部の人々と考えられている。
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、崇神朝に神八井耳後裔を阿蘇国造に任じたと記す。神八井耳は神武と媛蹈韛五十鈴媛の皇子であり、実際は大彦と久比岐の女性のあいだの子と推測した。
崇神朝は、崇神が実在しないとしても、垂仁朝の一世代前を指す。国造本紀が正しいなら、川上梟帥(熊襲)はすでに国造がいた阿蘇国の首長ということになり、矛盾が生じる。そして阿蘇国造を神八井耳5世孫(応神[15]世代)とする系図が存在する。よって国造本紀の誤りと考えられる。
神功皇后の出身氏族である息長氏は、琵琶湖の北東が本拠地と考えられている。河内や吉備にも痕跡が見られることから、淀川と茅渟海および明石海峡を活動域にしていたと考える。高志と瀬戸内を結ぶ交易を担っていたであろう息長氏は、淡路勢と久比岐勢の流れを汲むと推測する。
武内宿祢は活動年代が長く、後裔氏族も多岐にわたるため、複数人を組み合わせた存在と考える。そのなかで神功皇后に近く仕えていた武内宿祢は、成務[13]朝に伊弥頭(富山県射水市)と三国(福井県坂井市/あわら市)の国造に任じられる蘇我氏の祖と推測する。
熊襲討伐と三韓征伐をめぐる仲哀と神功皇后の行き違いは、北九州に配慮した淡路と高志が、丹波に賛同しなかったことを表しているのだろう。
そして三韓征伐は北九州勢の事績と考える。
息長氏は淡路と久比岐を結ぶ氏族であり、淡路も久比岐も北九州と縁深い地域だ。北九州が行った三韓征伐という大事を、北九州に縁深い淡路・久比岐の流れを汲む息長氏の事績にすり替えたものと推測する。
仲哀[14]に続く応神[15]は、垂仁[11]の子孫ではない可能性がある。しかし垂仁同様に、淡路勢と久比岐勢の流れを汲む息長氏の出身だろう。
神代下第十段(海幸山幸)の舞台は、記紀の記すとおり日向国と考える。
そして、仲哀の熊襲討伐失敗がこの逸話の元になる事件ではないかと推測する。
国造本紀は、応神[15]朝に景行[12]の皇子である豊国別の三世孫を日向国造に任じると記す。景行の母は丹波の日葉酢媛だ。
また日本書紀の景行紀に「次妃日向髮長大田根 生日向襲津彥皇子 是阿牟君之始祖也」とある。名前どおり日向の女性であれば、丹波と日向に婚姻関係があったことになる。
よって景行[12]のころに丹波勢の一部が日向に入植したと想定する。
ここから考えられる仮説はふたつ。
ひとつは、日向に入植した丹波勢が海幸(火闌降)であり、山幸(彦火火出見)は日向の在来勢力と見る。丹波入植勢が大和への恭順を日向勢に迫り、困った日向勢の若者が、近畿に影響力のある筑紫へ行って助力を請い、豊玉姫を妻に得た。
筑紫が日向の要請に応じて仲哀の熊襲討伐に反対したことの比喩が、仲哀[14]紀における神功皇后の神託と苦言である。
仲哀[14]は出自の不確かさから実在性が疑われる。創作された虚構の人物であれば、仲哀の事績は虚偽か、または誰か別人の事績を取り込んだと考えられる。日向の熊襲と対立した仲哀の事績は、日向に入植した丹波勢のものかもしれない。つまりは仲哀が海幸である。
もうひとつは、日向に入植した丹波勢が山幸であり、海幸は本家の丹波勢と見る。山幸である入植勢は現地の日向勢に馴染み、恭順を求め圧力をかける本家に反発した。そこで入植勢の若者が筑紫に助力を求め、豊玉姫を娶った。
筑紫の対応が神功皇后の神託と苦言である点は同じだ。
後者の説ならば、海幸と山幸を兄弟とする人物設定が活きるだろう。
前者の説では、豊玉姫と玉依姫が日向から夫を迎えたことになり、九州南北間の関係は悪くないと考えられる。邪馬台国論争に係る可能性があるので、どちらの説を採るか慎重に考えたい。
仁徳[16]の喪が明け、皇太子(履中[17])は婚姻の手筈を整えるが、相手の黒姫に遣わした住吉仲皇子が太子を騙り黒姫を奸する。皇太子はこれに気づくが、知らぬふりをする。しかし最悪の事態を考えた仲皇子は、太子の殺害を決意して宮に火をつける。しかし太子は平群木菟宿祢・物部大前宿祢・漢直祖阿知使主らが逃がしていたので助かる。仲皇子に味方する阿曇連濱子が、淡路野嶋の海人に太子を追わせるが失敗する。倭直吾子籠も仲皇子に味方して兵を率いるが、太子の兵の多さに挫け、土壇場で太子を助けに来たと偽る。しかし太子が疑って殺そうとしたので、妹の日之媛を献じて許しを得る。
窮地を脱した太子は石上振神宮に籠り、訪ねてきた瑞歯別皇子(反正[18])に仲皇子殺害を頼み、木菟宿祢を副える。瑞歯別皇子は仲皇子の近習の刺領巾を金品で釣り、仲皇子を殺させる。木菟宿祢が近習にあるまじき不忠義と進言し、瑞歯別は刺領巾を殺す。瑞歯別が復命した日に阿曇連濱子を捕らえ、のちに墨刑に処する。
日本書紀は住吉仲皇子の反逆の理由を色恋沙汰としているが、古事記は皇位簒奪としている。
日本書紀は履中を、治世6年、70才崩御と記す。よって63才の色恋沙汰である。また、妃になった黒姫とのあいだに三子を儲けたとも記す。
おそらく、黒姫を巡る色恋沙汰を理由とする日本書紀の記述は虚偽だ。
一方の古事記も疑わしい点がある。
応神皇后(仲姫)が生んだ第四皇子である仁徳[16]までは弟が皇位を継いでいる(一人っ子は除く)が、履中[17]は皇后(磐之媛)が生んだ第一皇子だ。また母の磐之媛は葛城襲津彦の娘で、一説には皇族ではない出自の皇后の初例とされる(※下記補足参照)。
履中が皇太子になることは異例だったはずだが一切言及がない。
履中を皇太子とする記述も、虚偽の可能性があるだろう。
記紀は履中[17]、住吉仲皇子、反正[18]、允恭[19]の四皇子を、皇后である磐之媛が生んだと記すが、これも疑わしい。
阿曇連濱子が履中[17]にかけた追手は「淡路野嶋の海人」を名乗る。現代の地図では、舟木遺跡(淡路島)の北々西2kmほどの海岸沿いに淡路野島がある。よって阿曇連濱子は淡路勢または北九州勢と考える。
同じく仲皇子に味方しようとした倭直吾子籠は、久比岐青海氏から分かれた倭氏だ。
阿曇氏と倭氏が擁護する住吉仲皇子のほうが正統だったのではなかろうか。
仁徳は初期に多くみえる長寿天皇の最後であり、その寿命は100を超える。
仁徳[16]と履中[17]のあいだには明らかな節目がある。
神武[1]から継体[26]までの治世年数を書きだすと、
神武76 綏靖33 安寧38 懿徳34 孝昭83 孝安102 孝霊76 孝元57 開化60 崇神68 垂仁99 景行60 成務60 仲哀9 (神功69) 応神41 仁徳87 履中6 反正5(6) 允恭42 安康3 雄略23 清寧5 顕宗3 仁賢11 武烈8 継体23 ――である。
仁徳以前では、仲哀[14]の治世9年が目立って短い。
履中以降は極端な短期治世が多いなかで、允恭[19]の42年と雄略[21]の23年が程よい治世年数と云えるだろう。允恭は襲津彦の孫の玉田宿禰を討ち、雄略は同じく孫の円大臣を殺めている。
また、国宝北野本は反正の治世を6年と記す。
もしも6年のほうが正しいなら、以下の出来すぎた計算式が成り立つ。
允恭42 = 履中6+反正6+安康3+清寧5+顕宗3+仁賢11+武烈8
国立国会図書館デジタルコレクション 日本書紀 : 国宝北野本. 巻第12 :コマ番号14/15
治世年数の長短は、編纂者により恣意的に設定されているのではなかろうか。
その真意を読むには、親九州派と反九州派、襲津彦の正体などを見極める必要があるだろう。
以上が、日本書紀に記された大和の建国神話だ。
大和に屈服させられた可哀想な出雲など存在しないことをご理解いただきたい。
可哀想というなら越中が一番だろう。
そして、倭大国魂神は決して大国主ではないと知っていただきたい。
垂仁[11]紀は、倭大神が大水口宿祢に著(あらわ)れ「我親治大地官者(我は親(みずか)ら大地官の者を治める)」と言ったと記す。ほかに、天照大神は天原を、皇孫は葦原中国の八十魂神を治めるとも言っているので、大地官とは天にも葦原中国にも居ない神のことだろう。
葦原中国の首長である大国主が、大国魂神(倭大神)のはずがない。
大国主は皇孫に祀られる神々の一柱である。
久比岐の東に隣接する高志深江から出土する弥生後期の土器の傾向は、北陸系と信州系そして東北系だ。ここは蝦夷とヤマトが混じっていた。そして高志深江の青海神社(現・加茂市)は祖神・椎根津彦と氏神・大国魂を祀る。
久比岐青海氏から派生した倭氏が祀る大国魂神が、倭大国魂神だろう。
大国魂神・倭大国魂神は久比岐青海氏の神である。