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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話余話 洲羽神話のモリヤ

洲羽の伝承では、建御名方が地元の神である洩矢(守屋大臣)を打ち負かして入植したという。この伝承の元になる史実として、ふたつの可能性が考えられるだろう。


『諏訪信重解状』とは 上記リンク先より2021年8月転写
諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を務めた諏訪(諏方)家に伝わる文書の中に、13世紀半ばに上社の大祝を務めた諏訪信重(すわ のぶしげ)が諏訪下社の大祝・金刺盛基の訴えに対して、諏訪社の本宮は上社であることを主張して鎌倉幕府へ提出したと言われる解状(げじょう、原告が裁判所に提出する上申書・訴状)がある。それが宝治3年(1249年)3月の奥書を持つ『諏訪信重解状』(『大祝信重解状』『大祝信重申状』とも)である。
 ――中略――
近年は文中の不可解かつ不自然な点の多さから、宝治年間以降に作られた偽書であるという説が浮上している。
諏訪信重解状より抜粋
一 守屋山麓御垂跡事
右 謹檢舊貫 當砌昔者 守屋大臣之所領也 大神天降御之刻 大臣者奉禦明神之居住 勵制止之方法 明神者廻可爲御敷地之祕計 或致諍論 或及合戰之處 兩方難决雌雄 爰明神者持藤鎰 大臣者以鐵鎰 懸此所引之 明神卽以藤鎰 令勝得軍陣之諍論給 而間 令追罰守屋大臣 卜居所當社 以來 遙送數百歲星霜 久施我神之稱譽於天下給 應跡之方々 是新哉 明神以彼藤鎰 自令植當社之前給 藤榮枝葉 号藤諏訪之森 毎年二ヶ度 御神事勤之 自尓以來 以當郡名諏方 爰下宮者 當社 依夫婦之契約 示姫大明神之名 然而 當大明神 若不令追出守屋給者 爭兩社 卜居御哉 自天降之元初 爲本宮之條 炳焉者哉

一 守屋山麓御垂跡事
右 謹み旧貫(きゅうかん、古い慣習)を検める 昔の当砌(みぎり)は 守屋大臣の所領也 大神が天降る御之刻 大臣は明神之居住まうを禦(ふせ)ぎ奉る 制止之方法を励ます 明神は御敷地之祕計と為す可く廻る 或いは諍論(じょうろん、論争)を致す 或いは合戦之処に及ぶ 両方が雌雄を决し難し 爰(ここ)に明神は藤鎰を持つ 大臣は鉄鎰を以て 此所に懸け之を引く 明神は即ち藤鎰を以て 軍陣之諍論(論争)に勝ち得せ令め給う 而間 守屋大臣を追罰せ令め 居所を当社に卜う 以来 遙か数百歲星霜を送る 久しく我神之称誉(しょうよ)を天下に施し給う 応跡之方々 是新哉 明神は彼の藤鎰を以て 自ら当社之前に植え令め給う 藤は枝葉を栄える 藤諏訪之森と号する 毎年二ヶ度 神事を御し之に勤める 尓(それ)より以来 以て当郡を諏方と名づく 爰(ここ)に下宮は 当社 夫婦之契約に依り 姫大明神之名を示す 然而 当大明神 若し守屋を追い出さ令め給わずなら 争う両社 居御を卜う哉 天より降る之元初 本宮之条を為す 炳(あきらか)焉者哉

東海の物部氏

先代旧事本紀巻十の国造本紀は、諏訪湖から太平洋へ流れる天竜川河口の遠淡海/成務[13]と久努/仲哀[14]の国造に物部氏を任じたと記す。また周辺の参河/成務[13]、熊野/成務[13]、珠流河/成務[13]、伊豆/神功[14.5]も物部氏を任じたと記す。

洲羽神話の元になった史実のひとつめの可能性は、
天竜川を遡上して洲羽(長野南部)に入植した勢力が洩矢(守屋大臣)であり、のちに科野(長野北部)から南下した勢力が建御名方で、二勢力が洲羽の地で衝突したことが伝承になったと考える。

科野(穂高見)と久比岐(椎根津彦)と越中東部(高倉下)は同族であり、椎根津彦は神武東征に於いて、神武と共闘して兄磯城を討った。長髄彦との戦闘では物部氏の祖である饒速日が神武に帰順している。

辻褄を合わせるなら洲羽で起きた建御名方とモリヤの対決は、饒速日が帰順するより前でなければならないだろう。「建御名方」「洩矢(守屋大臣)」は個人ではなく、それぞれ科野勢と饒速日勢を指すと考える。

東海の饒速日勢
先代旧事本紀巻十 国造本紀 饒速日後裔
参河国造
志賀高穴穂朝 以物部連祖出雲色大臣命 五世孫知波夜命 定賜国造
遠淡海国造
志賀高穴穂朝(成務) 以物部連祖伊香色雄命 兒印岐美命 定賜国造
久努国造
筑紫香椎朝(仲哀)代 以物部連祖伊香色男命 孫印播足尼 定賜国造
珠流河国造
志賀高穴穂朝(成務)世 以物部連祖大新川命 兒片堅石命 定賜国造
伊豆国造
神功皇后御代 物部連祖 天蕤桙命 八世孫若建命 定賜国造 難波朝(孝徳)御世 隷駿河国 飛鳥朝(天武)御世 分置如故
久自国造
志賀高穴穂朝御世 物部連祖伊香色雄命 三世孫船瀬足尼 定賜国造
三野後国造
志賀高穴穂朝御世 物部連祖出雲大臣命 孫臣賀夫良命 定賜国造
熊野国造
志賀高穴穂朝御世 饒速日命 五世孫大阿斗足尼 定賜国造
小市国造
軽島豊明朝御世 物部連同祖大新川命 孫子致命 定賜国造
風速国造
軽島豊明朝 物部連祖伊香色男命 四世孫阿佐利 定賜国造
松津国造
難波立津朝御世 物部連祖伊香色雄命 孫金弓連 定賜国造
松羅国造
志賀高穴穂朝御世 穂積臣同祖大水口足尼 孫矢田稲吉 定賜国造

丁未の乱

蘇我氏(崇仏派・用明崇峻)と物部氏(廃仏派・穴穂部皇子)の抗争に、皇位継承問題が絡み、丁未の乱が起こったとされる。
この乱で戦死した守屋の次男・武麿を養子に迎えたと、洲羽の守矢氏は伝える。

洲羽神話の元になった史実のもうひとつの可能性は、
守矢の次男である武麿により伝えられた兄磯城討伐の逸話が、地元の神話に変換されたと考える。この場合の建御名方は椎根津彦、モリヤは兄磯城である。

人文学はハイヌウェレ型やらバナナ型やら、神話が山も海も越えて遠く伝播して世界各地に根付いたと教えている。ならば、近畿の逸話が洲羽に根付くこともありえるだろう。

この仮説では、なぜモリヤなのかという疑問に対し、伝承者が守屋の次男だからという解を得られる。

wikipedia 守矢氏 2021年8月転写
『系譜』にも記録されている守矢氏と物部氏との関係をうかがわせる家伝があり、これによれば、物部守屋の次男である武麿が丁未の乱の後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、後に守矢氏の神長の養子となって、やがて神職を受け継いだという。

――― 丁未の乱メモ ――― 

585年: 敏達[30]崩御
用明[31]即位
586年: 穴穂部皇子の命で物部守屋が三輪逆(廃仏派)を誅殺
587年: 用明[31]崩御
蘇我馬子・炊屋姫(推古[33])の命で佐伯丹経手らが穴穂部皇子を誅殺
丁未の乱にて物部守屋が戦死
崇峻[32]即位

佐伯氏の補足

佐伯丹経手の出身である佐伯氏の氏寺は四国讃岐にある曼陀羅寺で、創建は596年(推古[33])と伝わる。
法興寺(飛鳥寺、蘇我氏の氏寺)も同じ596年創建と伝わる。

wikipedia 佐伯氏 2021年8月転写
一族に、蘇我馬子に従い穴穂部皇子を誅殺した佐伯丹経手、中大兄皇子に従い蘇我入鹿を殺害した佐伯子麻呂(丹経手の子)、 征越後蝦夷将軍の佐伯石湯、征東副将軍の佐伯葛城(石湯の孫)などがいる。
天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、大伴室屋の時に大伴氏から別れた神別氏族である

(補足:大伴室屋は允恭[19]から顕宗[23]の大連)

日本書紀の建国神話に於いて四国は、阿波の天磐戸神社が天岩戸神話の原型である可能性は考えられるものの、地域勢力としては登場しない。

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