洲羽の伝承では、建御名方が地元の神である洩矢(守屋大臣)を打ち負かして入植したという。この伝承の元になる史実として、ふたつの可能性が考えられるだろう。
諏訪史料データベース 諏訪信重解状
東海の物部氏
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、諏訪湖から太平洋へ流れる天竜川河口の遠淡海/成務[13]と久努/仲哀[14]の国造に物部氏を任じたと記す。また周辺の参河/成務[13]、熊野/成務[13]、珠流河/成務[13]、伊豆/神功[14.5]も物部氏を任じたと記す。
洲羽神話の元になった史実のひとつめの可能性は、
天竜川を遡上して洲羽(長野南部)に入植した勢力が洩矢(守屋大臣)であり、のちに科野(長野北部)から南下した勢力が建御名方で、二勢力が洲羽の地で衝突したことが伝承になったと考える。
科野(穂高見)と久比岐(椎根津彦)と越中東部(高倉下)は同族であり、椎根津彦は神武東征に於いて、神武と共闘して兄磯城を討った。長髄彦との戦闘では物部氏の祖である饒速日が神武に帰順している。
辻褄を合わせるなら洲羽で起きた建御名方とモリヤの対決は、饒速日が帰順するより前でなければならないだろう。「建御名方」「洩矢(守屋大臣)」は個人ではなく、それぞれ科野勢と饒速日勢を指すと考える。
丁未の乱
蘇我氏(崇仏派・用明崇峻)と物部氏(廃仏派・穴穂部皇子)の抗争に、皇位継承問題が絡み、丁未の乱が起こったとされる。
この乱で戦死した守屋の次男・武麿を養子に迎えたと、洲羽の守矢氏は伝える。
洲羽神話の元になった史実のもうひとつの可能性は、
守矢の次男である武麿により伝えられた兄磯城討伐の逸話が、地元の神話に変換されたと考える。この場合の建御名方は椎根津彦、モリヤは兄磯城である。
人文学はハイヌウェレ型やらバナナ型やら、神話が山も海も越えて遠く伝播して世界各地に根付いたと教えている。ならば、近畿の逸話が洲羽に根付くこともありえるだろう。
この仮説では、なぜモリヤなのかという疑問に対し、伝承者が守屋の次男だからという解を得られる。
――― 丁未の乱メモ ―――
585年: |
敏達[30]崩御
用明[31]即位 |
586年: |
穴穂部皇子の命で物部守屋が三輪逆(廃仏派)を誅殺 |
587年: |
用明[31]崩御
蘇我馬子・炊屋姫(推古[33])の命で佐伯丹経手らが穴穂部皇子を誅殺
丁未の乱にて物部守屋が戦死
崇峻[32]即位 |
佐伯氏の補足
佐伯丹経手の出身である佐伯氏の氏寺は四国讃岐にある曼陀羅寺で、創建は596年(推古[33])と伝わる。
法興寺(飛鳥寺、蘇我氏の氏寺)も同じ596年創建と伝わる。
四国遍路 【72番札所曼荼羅寺】四国霊場最古といわれる歴史のお寺の「不老松」と「笠松大師」
日本書紀の建国神話に於いて四国は、阿波の天磐戸神社が天岩戸神話の原型である可能性は考えられるものの、地域勢力としては登場しない。