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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話余話 関東の国譲り

神代下第九段(国譲り)の一書第二は、高皇産霊が大己貴に「當主汝祭祀者天穗日命」と言って、天穂日が大己貴を祀ることを約束する。
天穂日は、天照と素戔嗚の誓約で誕生した五男神(六男神)の一柱だ。


神代上第六段(誓約)本伝は、天穂日に「是出雲臣土師連等祖也」、天津彦根に「是凡川内直山代直等祖也」と添書きする。先代旧事本紀巻十の国造本紀によると、この二柱の後裔から多くの国造が輩出されている。その内訳は関東に多い。

天穂日の後裔は、无邪志・上海上・伊甚・菊麻・阿波・新治・高/成務[13]、下海上/応神[15]の国造に任じられている。
天津彦根の後裔は、師長・須恵・馬来田・筑波/成務[13]、胸刺/記載なし、茨城・道口岐閇/応神[15]の国造に任じられている。

関東には経津主を祀る香取神宮、武甕槌を祀る鹿島神宮、天津甕星と建葉槌を祀る大甕神社が存在することを踏まえると、関東にも国譲りに類する歴史があるあるのではないかと思う。

関東の国造 天穂日と天津彦根
先代旧事本紀巻十 国造本紀 天穂日後裔
島津国造
志賀高穴穂朝(成務)御世 出雲臣祖佐比祢足尼 孫出雲笠夜命 定賜国造
无邪志国造
志賀高穴穂朝世 出雲臣祖名二井之宇迦諸忍之神狭命 十世孫兄多毛比命 定賜国造
上海上国造
志賀高穴穂朝 天穂日命 八世孫忍立化多比命 定賜国造
伊甚国造
志賀高穴穂朝御世 安房国造祖伊許保止命 孫伊己侶止直 定賜国造
菊麻国造
志賀高穴穂朝 无邪志国造祖兄多毛比命 兒大鹿国直 定賜国造
阿波国造
志賀高穴穂朝御世 天穂日命 八世孫弥都侶岐命 孫大伴直大瀧 定賜国造
下海上国造
軽島豊明朝御世 上海上国造祖孫久都伎直 定賜国造
新治国造
志賀高穴穂朝(成務)御世 美都呂岐命 兒比奈羅布命 定賜国造
高国造
志賀高穴穂朝御世 弥都呂岐命 孫弥佐比命 定賜国造
二方国造
志賀高穴穂朝御世 出雲国造同祖遷狛一奴命 孫美尼布命 定賜国造
伯岐国造
志賀高穴穂朝御世 牟邪志国造同祖兄多毛比命 兒大八木足尼 定賜国造
出雲国造
瑞籬朝(崇神) 以天穂日命十一世 孫宇迦都久怒 定賜国造
大島国造
志賀高穴穂朝 无邪志国造同祖兄多毛比命 兒穴倭古命 定賜国造
豊国造
志賀高穴穂朝御代 伊甚国造同祖宇那足尼 定賜国造

「アワ」には南房総の阿波国造と四国の粟国造がある。
のちの時代には、四国を「阿波」、南房総を「安房」と表記するようになった。

先代旧事本紀巻十 国造本紀 天津彦根後裔
凡河内国造
橿原朝御世 以彦己曽保理命 為凡河内国造
山城国造
橿原朝御世 阿多根命 為山代国造
山背国造
志賀高穴穂朝(成務)御世 以曽能振命 定賜国造
師長国造
志賀高穴穂朝御世 茨城国造祖建許呂命 兒意富鷲弥命 定賜国造
胸刺国造
岐閇国造祖兄多毛比命 兒伊狭知直 定賜国造
須恵国造
志賀高穴穂朝(成務) 茨城国造祖建許侶命 兒大布日意弥命 定賜国造
馬来田国造
志賀高穴穂朝世 茨城国造祖建許侶命 兒深河意弥命 定賜国造
筑波国造
志賀高穴穂朝 以忍凝見命 孫阿閇色命 定賜国造
茨城国造
軽島豊明朝御世 天津彦根命 孫筑紫刀弥 定賜国造
道奥菊多国造
軽島豊明御世 以建許呂命 兒屋主乃弥 定賜国造
道口岐閇国造
軽島豊明御世 建許呂命 兒宇佐比乃弥 定賜国造
石背国造
志賀高穴穂朝御世 以建許侶命 兒建弥依米命 定賜国造
石城国造
志賀高穴穂朝御世 以建許侶命 定賜国造
周防国造
軽島豊明朝 茨城国造同祖加米乃意美 定賜国造
穴門国造
纏向日代朝御世 櫻井田部連同祖 邇伎都美命 四世孫速都鳥命 定賜国造

无邪志国造と胸刺国造は同名「兄多毛比」。
无邪志国造は出雲臣を参照するため天穂日系、胸刺国造は道口岐閇国造(建許呂)を参照するため天津彦根系に分類した。

毛野国

国造本紀は、仁徳[16]朝に毛野国を上下に分割したと記す。
国造に任命されたのは上下とも豊城入彦の後裔だ。

先代旧事本紀巻十 国造本紀
上毛野国造
瑞籬朝(崇神)皇子豊城入彦命 孫彦狭島命 初治平東方十二国為封
下毛野国造
難波高津朝御世 元毛野国分為上下 豊城命四世孫奈良別 初定賜国造

豊城入彦の母について崇神[10]紀は、紀伊国荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(一云に大海宿祢の娘の八坂振天某辺)と記す。
同母妹の豊鍬入姫は、崇神[10]紀六年に「以天照大神 託豊鍬入姫命」とある。

垂仁[11]紀二十五年三月に「離天照大神於豊耜入姫命 託于倭姫命」とある。倭姫命は垂仁皇女であり、母は丹波の日葉酢媛だ。そして倭姫が伊勢で天照を祀りはじめたと記す。

垂仁[11]紀は、豊城入彦の子である八綱田が狭穂彦を討伐したと記す。
狭穂彦は、「豊受太神宮禰宜補任次第」や「喚起泉達録」に記録された越中の阿彦であろうと推測した。また神代紀の天津甕星に相当するとも推測した。 阿彦を討伐したのは丹波氏の大若子だ。

日本書紀に記述は、丹波と豊城入彦の事績をつなげている。
丹波の首長は大己貴であり、丹波道主は開化[9]の孫(父は彦坐王)として皇統に取り込まれている。

よって豊城入彦は丹波道主に類似の存在、つまりは関東の大国主だろうと考える。

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