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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第一章 素戔嗚と三女神

第五段(神産み)では、さまざまな神と三貴子(天照、月読、素戔嗚)が誕生する。三貴子は、本伝と一書第二では伊弉諾と伊弉冉の両親から、一書第一と第六(黄泉戸喫)では伊弉諾の片親から生まれるが、どちらにせよ素戔嗚は乱暴な気性ゆえに、親により根国へ追放される。

続く第六段(誓約)では、根国へ行く前に姉に会おうと考えた素戔嗚が、高天原を訪ねる。高天原を奪いに来たのではと疑う天照と、悪意はないと主張する素戔嗚が誓約した結果、三女神と五男神(一書第三は六男神)が生まれ、素戔嗚の主張が通る。


誓約で生まれた三女神

現代の宗像大社は、沖ノ島にある沖津宮に田心姫、大島にある中津宮に湍津姫、九州本土にある辺津宮に市杵嶋姫を祀る。
多紀理毘売の別名を奧津嶋(オキツシマ)比売とする古事記の記述は現状に適う。

古事記 巻上
於吹棄氣吹之狹霧所成神 御名 多紀理毘賣命 此神名以音 亦御名 謂奧津嶋比賣命 次市寸嶋比賣命 亦御名 謂狹依毘賣命 次多岐都比賣命 三柱 此神名以音

吹き棄てる気吹の狭霧が成る所の神 御名 多紀理毘売命 此神は音を以って名づく 亦の御名 奧津嶋比売命と謂う 次に市寸嶋比売命 亦の御名 狭依毘売命と謂う 次に多岐都比売命 三柱 此神は音を以って名づく

日本書紀が記す三女神は、生まれた順に並べて
本伝は、田心姫・湍津姫・市杵嶋姫
一書第一は、瀛津嶋姫・湍津姫・田心姫
一書第二は、市杵嶋姫・田心姫・湍津姫
一書第三は、瀛津嶋姫亦名市杵嶋姫・湍津姫・田霧姫
である。文献は、瀛津嶋に「ヲキツシマ」とフリガナを振る。

古事記は「タギリヒメ=オキツシマヒメ(奧津嶋比売)」で、
日本書紀は「イチキシマヒメ=ヲキツシマヒメ(瀛津嶋姫)」だ。
まぎらわしいが、よくみれば「オ」と「ヲ」なので音が違う。

「瀛」の字義は「大海や沢池沼」で、海洋から陸の水場まで幅広くカバーする。
また一書第二は、遠い瀛に市杵嶋姫が居て、中瀛に田心姫が居ると記す。九州本土が遠く、沖ノ島が中だから、これは対馬側から見た位置関係だろう。

神代上第六段 誓約 一書第二
囓斷瓊端 而 吹出氣噴之中化生神 號市杵嶋姬命 是居于遠瀛者也 又 囓斷瓊中 而 吹出氣噴之中化生神 號田心姬命 是居于中瀛者也 又 囓斷瓊尾 而 吹出氣噴之中化生神 號湍津姬命 是居于海濱者也 凡三女神

瓊の端を齧り断つ 而 吹き出す気噴の中に化生する神 號は市杵嶋姫命 是は遠い瀛(海や沢池沼)に居る者也 又 瓊の中を齧り断つ 而 吹き出す気噴の中に化生する神 號は田心姫命 是は中瀛に居る者也 又 瓊の尾を齧り断つ 而 吹き出す気噴の中に化生する神 號は湍津姫命 是は海濱(浜)に居る者也 凡(すべ)て三女神

一書第三は、筑紫の水沼君らが三女神を祀ったと記す。これは、宇佐神宮の南方10km弱のところにある三女神社のことらしい。
今在海北道中とあるので、宗像三女神と同一神である。

神代上第六段 誓約 一書第三
卽以日神所生三女神者 使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣 今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭神 是也

即ち日神を以て生す所の三女神は 葦原中国の宇佐嶋に隆(たか)く居(お)ら使む矣 今は海北道の中に在る 號は曰く道主貴 此は筑紫の水沼君等が祭る神 是也

誓約の三女神

以上のことから、誓約の三女神は宇佐と対馬をむすぶ交易路を司ると考える。

誓約の素戔嗚

朝鮮半島の南部は倭国の土地であると、魏志韓伝は記す。
そして魏志倭人伝は、海岸に沿う航路で韓国を経て狗邪韓国に到り、海を渡って対海国に到ると記す。
よって朝鮮半島南部にある倭の土地が「狗邪韓国」であると解釈できる。

魏志韓伝
韓 在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里 有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓

韓 帯方の南に在り 東西は海を以って限りを為す 南は倭と接する 方可四千里(四千里四方) 三種有り 一は曰く馬韓 二は曰く辰韓 三は曰く弁韓

魏志倭人伝
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 始度一海 千餘里 至對馬國

郡より倭へ至る 海岸に循(したが)い水行 韓国を歴(へ)る 乍南乍東 其(倭)の北岸に到る 狗邪韓国 七千余里 始め一海を度(渡)る 千余里 対海国に至る

対馬と宇佐をむすぶ三女神の航路は、朝鮮半島との往来に利用されたと考える。

第六段(誓約)本伝では、三女神は素戔嗚の子になる。
また、第八段(八岐大蛇)一書第四は、高天原を追われた素戔嗚は新羅へ行ったが馴染まず、土の船で海を渡り出雲へ移ったと記す。

素戔嗚は朝鮮半島とつながりが深い。
そして伊弉諾を親に持つ三貴子の一人であることを考慮すれば、素戔嗚は朝鮮半島に存在した倭の勢力、狗邪韓国を象徴する存在と見做せるだろう。

神代上第六段 誓約 本伝
天照大神勅曰 原其物根 則八坂瓊之五百箇御統者 是吾物也 故 彼五男神 悉是吾兒 乃取而子養焉 又 勅曰 其十握劒者 是素戔嗚尊物也 故 此三女神 悉是爾兒 便授之素戔嗚尊 此則筑紫胸肩君等所祭神 是也

天照大神は勅し曰く 其の物の根ざす原 則ち八坂瓊之五百箇御統は 是は吾の物也 故 彼の五男神 悉く是は吾兒 乃ち取りて子養う焉 又 勅し曰く 其の十握剱は 是は素戔嗚尊の物也 故 此の三女神 悉く是は爾(なんじ)の兒 便ち素戔嗚尊に之を授ける 此れ則ち筑紫の胸肩君等の祭る所の神 是也

神代上第八段 八岐大蛇 一書第四
諸神 科以千座置戸 而 遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地 吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在鳥上之峯

諸神 千座の置戸を以て科す 而 遂に之を逐う 是時 素戔嗚尊 其の子の五十猛神を帥(率)い 新羅国に降り到る 曾尸茂梨(ソシモリ)に居る之処 乃ちを興を言い曰く 此の地 吾は居るを欲さず 遂に埴土を以て舟を作る 之に乘り東へ渡る 出雲国簸川上に所在する鳥上の峯に到る

時代を下って5~6世紀、朝鮮半島南部に前方後円墳が築造される。下記の資料によると、2010年時点で13基が確認されている。
この頃の朝鮮半島南部の倭人勢力には伽耶や加羅、任那などの呼称がある。

562年(欽明[29])、伽耶は新羅に滅ぼされる。
663年(天智[38])、大和は百済を支援して出兵した白村江の戦いにて新羅・唐に敗戦。これにより日本は、朝鮮半島の権益を完全に失ったと考えられている。

この敗戦後に「防人」が制度化される。
防人は東国から徴発された者が多く、主に壱岐・対馬・筑紫など北九州沿岸地域へ送られて兵役を務めた。

九州の防衛線に東国人を動員した理由について、はるか昔から朝鮮半島で活動してきた九州勢の動きを警戒したためではないかと推測する。新羅・唐を呼び入れることを危惧したか、あるいは百済の残党と通じては唐から難癖をつけられる恐れがあると考えたか。防人の矛先は九州の外へも内へも向いていたのではなかろうか。

防人は730年(聖武[45])に廃止される。
720年に成立した日本書紀の編纂開始は、681年(天武[40]紀十年 三月庚午朔 丙戌)だ。つまり日本書紀が編纂されていた頃、大和朝廷は朝鮮半島との交流を抑制する政策をとっていたと考えられる。

天武[40]紀十年 三月庚午朔 丙戌
丙戌 天皇御于大極殿 以詔 川嶋皇子 忍壁皇子 廣瀬王 竹田王 桑田王 三野王 大錦下上毛野君三千 小錦中忌部連首 小錦下阿曇連稻敷 難波連大形 大山上中臣連大嶋 大山下平群臣子首 令記定帝紀及上古諸事 大嶋 子首 親執筆 以錄焉

丙戌 天皇は大極殿に御する 詔を以て 川嶋皇子 忍壁皇子 廣瀬王 竹田王 桑田王 三野王 大錦下上毛野君三千 小錦中忌部連首 小錦下阿曇連稻敷 難波連大形 大山上中臣連大嶋 大山下平群臣子首 帝紀及び上古の諸事を記し定め令める 大嶋 子首 親(みずか)ら筆を執る 以て録(しる)す焉

神代七世に属する神である伊弉諾によって素戔嗚が根国へ逐いやられるエピソードは、日本書紀編纂当時の国際情勢を反映して創作されたのではなかろうか。朝鮮半島を手放すのは、大和朝廷が奉祀する皇祖天照より上の意思が働いたからという理屈だ。

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