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第五段(神産み)では、さまざまな神と三貴子(天照、月読、素戔嗚)が誕生する。三貴子は、本伝と一書第二では伊弉諾と伊弉冉の両親から、一書第一と第六(黄泉戸喫)では伊弉諾の片親から生まれるが、どちらにせよ素戔嗚は乱暴な気性ゆえに、親により根国へ追放される。
続く第六段(誓約)では、根国へ行く前に姉に会おうと考えた素戔嗚が、高天原を訪ねる。高天原を奪いに来たのではと疑う天照と、悪意はないと主張する素戔嗚が誓約した結果、三女神と五男神(一書第三は六男神)が生まれ、素戔嗚の主張が通る。
現代の宗像大社は、沖ノ島にある沖津宮に田心姫、大島にある中津宮に湍津姫、九州本土にある辺津宮に市杵嶋姫を祀る。
多紀理毘売の別名を奧津嶋(オキツシマ)比売とする古事記の記述は現状に適う。
国立国会図書館デジタルコレクション 訂正古訓古事記 3巻. [1] :コマ番号29-30/83
日本書紀が記す三女神は、生まれた順に並べて
本伝は、田心姫・湍津姫・市杵嶋姫
一書第一は、瀛津嶋姫・湍津姫・田心姫
一書第二は、市杵嶋姫・田心姫・湍津姫
一書第三は、瀛津嶋姫亦名市杵嶋姫・湍津姫・田霧姫
である。文献は、瀛津嶋に「ヲキツシマ」とフリガナを振る。
国立国会図書館デジタルコレクション 日本書紀. 巻第1 :コマ番号25/45
古事記は「タギリヒメ=オキツシマヒメ(奧津嶋比売)」で、
日本書紀は「イチキシマヒメ=ヲキツシマヒメ(瀛津嶋姫)」だ。
まぎらわしいが、よくみれば「オ」と「ヲ」なので音が違う。
「瀛」の字義は「大海や沢池沼」で、海洋から陸の水場まで幅広くカバーする。
また一書第二は、遠い瀛に市杵嶋姫が居て、中瀛に田心姫が居ると記す。九州本土が遠く、沖ノ島が中だから、これは対馬側から見た位置関係だろう。
Wiktionary 瀛
一書第三は、筑紫の水沼君らが三女神を祀ったと記す。これは、宇佐神宮の南方10km弱のところにある三女神社のことらしい。
今在海北道中
とあるので、宗像三女神と同一神である。
以上のことから、誓約の三女神は宇佐と対馬をむすぶ交易路を司ると考える。
朝鮮半島の南部は倭国の土地であると、魏志韓伝は記す。
そして魏志倭人伝は、海岸に沿う航路で韓国を経て狗邪韓国に到り、海を渡って対海国に到ると記す。
よって朝鮮半島南部にある倭の土地が「狗邪韓国」であると解釈できる。
対馬と宇佐をむすぶ三女神の航路は、朝鮮半島との往来に利用されたと考える。
第六段(誓約)本伝では、三女神は素戔嗚の子になる。
また、第八段(八岐大蛇)一書第四は、高天原を追われた素戔嗚は新羅へ行ったが馴染まず、土の船で海を渡り出雲へ移ったと記す。
素戔嗚は朝鮮半島とつながりが深い。
そして伊弉諾を親に持つ三貴子の一人であることを考慮すれば、素戔嗚は朝鮮半島に存在した倭の勢力、狗邪韓国を象徴する存在と見做せるだろう。
時代を下って5~6世紀、朝鮮半島南部に前方後円墳が築造される。下記の資料によると、2010年時点で13基が確認されている。
この頃の朝鮮半島南部の倭人勢力には伽耶や加羅、任那などの呼称がある。
九州国際大学学術成果リポジトリ 朝鮮半島南部に倭人が造った前方後円墳 : 古代九州との国際交流
562年(欽明[29])、伽耶は新羅に滅ぼされる。
663年(天智[38])、大和は百済を支援して出兵した白村江の戦いにて新羅・唐に敗戦。これにより日本は、朝鮮半島の権益を完全に失ったと考えられている。
この敗戦後に「防人」が制度化される。
防人は東国から徴発された者が多く、主に壱岐・対馬・筑紫など北九州沿岸地域へ送られて兵役を務めた。
九州の防衛線に東国人を動員した理由について、はるか昔から朝鮮半島で活動してきた九州勢の動きを警戒したためではないかと推測する。新羅・唐を呼び入れることを危惧したか、あるいは百済の残党と通じては唐から難癖をつけられる恐れがあると考えたか。防人の矛先は九州の外へも内へも向いていたのではなかろうか。
防人は730年(聖武[45])に廃止される。
720年に成立した日本書紀の編纂開始は、681年(天武[40]紀十年 三月庚午朔 丙戌)だ。つまり日本書紀が編纂されていた頃、大和朝廷は朝鮮半島との交流を抑制する政策をとっていたと考えられる。
神代七世に属する神である伊弉諾によって素戔嗚が根国へ逐いやられるエピソードは、日本書紀編纂当時の国際情勢を反映して創作されたのではなかろうか。朝鮮半島を手放すのは、大和朝廷が奉祀する皇祖天照より上の意思が働いたからという理屈だ。