[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
前回の要点:
天稚彦=兄磯城=彦湯支。味耜高彦根=弟磯城=味饒田。
神武(淡路)と椎根津彦(久比岐)が共闘して兄磯城を挟み撃ちにする。丹波大己貴の国譲りとは、このとき淡路・久比岐との対立を避けて素通りさせたこと。
淡路勢と対立する長髄彦は葦原醜男と須世理毘売の子孫。
淡路 vs.畿内の主戦場は和歌山平野。
神武は橿原に宮を造営したのち高貴な女性を求める。進言を受けて媛蹈韛五十鈴媛を正妃に迎え、自身の天皇即位にあわせ皇后とする。
媛蹈韛五十鈴媛の父には大物主説と事代主説があり、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六は双方の説を記す。大物主にしろ事代主にしろ越前素戔嗚の系譜なので、この違いにこだわる必要はないだろう。
このエピソードに該当する神武は大彦である。
淡路勢を含む瀬戸内勢が国見岳八十梟帥を討伐して、淡路の大彦が久比岐青海氏の女性を娶り武渟川別を儲けた。
久比岐青海氏祖の椎根津彦を祀る越後加茂の青海神社は、794年から京都の賀茂神社の分霊も併せ祀る。記紀が記す媛蹈韛五十鈴媛の誕生譚が、賀茂神社に祀られる賀茂健角身と玉依比売の逸話をもとにした創作だからだろう。
越後加茂 青海神社 御祭神
山城国一宮 賀茂別雷神社 御神話
倭氏は、大彦の妻とともに久比岐から近畿へ移住した久比岐青海氏の分家と考える。
系図では椎根津彦五世孫(飯手足尼)以降にスクネが付いているので、近畿入りはこの頃だろう。垂仁[11]紀に名前がある市磯長尾市から世代数を数えると、飯手足尼は大彦と同世代だ。
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、神武[1]朝に椎根津彦を大倭国造に定めたと記し、崇神[10]朝には椎根津彦の後裔を久比岐国造に、神八井耳(神武皇子)の後裔を科野国造・火国造に任命したと記す。
ここでも久比岐・科野と北九州のつながりを見て取れる。
神武崩御後、媛蹈韛五十鈴媛が生んだ二皇子(神八井耳と神渟名川耳)は、日向国の吾平津媛が生んだ皇子(手硏耳)が二皇子を害するつもりと知り、先手を打って手硏耳を襲撃する。このとき臆病風に吹かれ殺傷できなかった神八井耳は、代わって遂行した神渟名川耳を称えて皇位を勧め、神渟名川耳が即位する(綏靖[2])。
事績が無いと云われる欠史八代紀に記される唯一のエピソードだ。
神武東征は饒速日勢と淡路勢の事績を組み合わせた創作であり、国見岳八十梟帥以降の神武は大彦なので、神八井耳と神渟名川耳(綏靖)は大彦の子となる。
神渟名川耳は名前にヌナカワを含むことから、武渟川別と同一だろう。
先代旧事本紀巻十の国造本紀は、成務[13]朝に大彦の後裔を筑紫国造・高志国造に任命したと記す。
ここでも久比岐・科野と北九州のつながりを見て取れる。
また、崇神[10]朝に「道君同祖」素都乃奈美留を高志深江国造に、仁徳[16]朝に「能登國造同祖」素都乃奈美留を加宜国造に任命したとあり、同名だが世代が違うのでいずれかの誤りと見られている。
道君は阿倍氏の同族で、阿倍氏は大彦の後裔(筑志國造に明記)だ。
また活目帝は垂仁(和風諡号が活目入彦五十狹茅)のことだ。
大彦は神武と同一であり、垂仁の祖父にあたる。
よって世代の記述が誤っているだけで、素都乃奈美留は同一人物と考える。
なお紛らわしいが上毛野国造も彦狭島とあり、能等国造と同名だ。上毛野のほうは垂仁の異母兄/弟である豊城入彦の孫なので、この彦狭島は別人と考える。
ただし、大入来は日本書紀に登場しない。
先代旧事本紀でも巻七天皇本紀に記載はなく、巻十国造本紀の能登国造が記すのみだ。古事記は、尾張大海媛が生んだ崇神[10]皇子と記す。
尾張大海媛は日本書紀、先代旧事本紀巻七の天皇本紀でも崇神妃になっており、淳名城入姫らを生む。淳名城入姫は崇神紀と垂仁紀に、倭大国魂の祭主に選ばれたが体調を崩し祀れなかったと記される。
神渟名川耳(綏靖)が淡路勢の系統なら、手硏耳は饒速日勢の系統だろう。
一説に、饒速日は伊勢津彦であると云う。
伊勢国風土記逸文が記す伊勢津彦は、神武の勅名を受けた天日別に「汝國獻於天孫哉(汝の国は天孫に献じる哉)」と問われて断るが、天日別が兵を整えたので恐れて「吾國悉獻於天孫(吾の国は悉く天孫に献じる)」と告げた。その夜、大風を起こし海を波立て日のように光りながら東へ去った。
小文字で「近令住信濃國(近く信濃国に住ま令める)」とある。
松本盆地南部には三世紀末の築造と目される弘法山古墳(前方後方墳)がある。前方後方墳の発祥は伊勢湾沿岸と考えられている。
国立国会図書館デジタルコレクション 風土記 :コマ番号144-145/291
松本市 新まつもと物語 弘法山古墳
神渟名川耳のエピソードと天日別のエピソードは、饒速日勢を畿内から排除したという点で共通する。
しかし既に恭順した饒速日を淡路勢が排除する理由が無い。しかも逃亡先が久比岐と関係が深い科野・洲羽ときては、違和感しかない。
どちらも、同じ出来事を元にした虚偽の作り話ではなかろうか。記紀神話には饒速日勢を矮小化させたい意向が働いているように思う。
天日別は伊勢中臣氏の祖だ。そして、物部氏が石上神宮で祀る韴霊剱を武甕槌の所有物とする記述が神武紀にあるが、杵築大己貴の国譲りの主力は経津主のほうであろうと、国譲り神話の章で述べた。武甕槌は、中臣氏から分立した藤原氏が、大和の春日大社で経津主や祖神の天兒屋とともに祀る。
意向が誰のものかは言うまでもなかろう。
大彦が初代神武天皇であり、武渟川別が第二代綏靖天皇と考える。そして第三代から第九代までは、初代神武の血統ではないと考える。しかし無意味な名前を並べたわけではないだろう。
和風諡号に含まれるキーワードから連想される人物を以下に記す。
三代から九代までは皇統の血筋ではないものの、ヤマト建国神話の主役級といえる重要人物が並んでいる。
ムジナの腹から八尺瓊勾玉が出たエピソードは垂仁紀にある。
観松彦色止は、別名に天八現津彦などがある。
孝昭(觀松彦香殖稲)の皇后は尾張氏祖の世襲足媛であり、尾張氏祖の高倉下は越中東部の海人族だ。
また、観松彦色止の祖である事代主は越前素戔嗚(八千矛)の子孫だ。
越前には四隅突出墳の小羽山30号墓があり、越中の婦負郡にも杉谷4号墳などが確認されている。2021年7月時点で北陸の四隅突出墳はこの二地域のみ。
山陰から導入された墓制だが、小羽山より婦負郡のほうが独自色が強いとの指摘がある。山陰から小羽山、小羽山から婦負郡へ伝播したのではなかろうか。
富山市埋蔵文化財センター 考古学からみた富山市の歴史 弥生時代
全国遺跡報告総覧 富山県婦中町千坊山遺跡群試掘調査報告書 6332_2_[PDF]
和風諡号に「国押」を含む天皇は孝安[6]のほかに、安閑[27]と宣化[28]がいる。
安閑「広国押武金日天皇」と宣化「武小広国押盾天皇」は同腹の兄弟で、父は継体[26]、母は尾張目子媛であり、孝安[6]の母は尾張世襲足媛だ。
先代旧事本紀巻第五の天孫本紀は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日の兒である天香語山の子孫の建田背(六世孫)が、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造等の祖と記す。 尾張国造は建田背の弟である建宇那比の子孫にあたる。
先代旧事本紀巻第十の国造本紀は尾張国造の同祖に、斐陀国造と丹後国造を記す。
そして丹後一宮籠神社社家、海部氏系図の始祖は彦火明である。
また出雲国造に記す天穂日の十一世孫宇迦都久怒は、崇神[10]紀の逸話にみえる出雲振根の甥である鸕濡渟の表記揺れと考えられている。
日本書紀神代下の第九段(国譲り)の一書第二では高皇産霊が、天穂日に大己貴を祀らせることを約束している。
以上のことから、天穂日と火明は近似の意味を持つ存在と考えられる。
もしかすると《同一》と云えるかもしれない。
そして、第六代孝安天皇「日本足彦国押人」は天穂日もしくは火明と推定する。