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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建国神話第四章 逐降と国見岳と埴安(2)

前回の要点:
神武は高皇産霊。国見岳八十梟帥は大国主。
越前の丹生山地と国見岳は素戔嗚ゆかりの地。
素戔嗚の狼藉が原因で神退った稚日女は、高志と瀬戸内をむすぶ経路(琵琶湖・淀川)を活動域にしていた息長氏に縁がある。
天岩戸で諸神が講じた策と、丹生川上で神武が行った祭祀は、天香山と真坂樹が共通する。天香山は弥彦神社祭神の名でもある。


埴安

神武[1]紀の末尾、東征を締めくくり即位するエピソードの直前に「或曰(或るいは曰く)」として、天香山の埴土を取った場所を「埴安」と云うとある。

神武[1]紀 己未年春二月壬辰朔辛亥 或曰(或るいは曰く)
天皇 以前年秋九月 潛取天香山之埴土 以造八十平瓮 躬自齋戒祭諸神 遂得安定區宇 故 号取土之處 曰埴安

天皇 前年秋九月を以て 天香山の埴土を潜み取る 以て八十平瓮を造る 躬(み)は自(みずか)ら斎戒し諸神を祭る 遂に安定の区宇(くう、区域)を得る 故 土を取る之処の号 曰く埴安

崇神[10]紀は「武埴安彦」の謀反を記す。
連座した妻の吾田媛が「倭香山の土」を取って「是倭國之物實(是は倭国の物実)」と祈り、討伐に向かった大彦は「爰以忌瓮 鎭坐於和珥武鐰坂上(爰(ここ)に忌瓮(いわいべ)を以て 和珥武鐰坂上に鎮坐する)」とある。

武埴安彦は「埴安」に通じ、倭香山は「天香山」に通じる。
討伐にあたり鎮座した大彦は、高皇産霊の顕斎になった神武に通じる。

崇神[10]紀十年秋七月丙戌朔 壬子
天皇姑倭迹々日百襲姬命 聰明叡智 能識未然 乃知其歌怪 言于天皇 是武埴安彥 將謀反 之表者也 吾聞 武埴安彥之妻吾田媛 密來 之取倭香山土 裹領巾頭而祈曰 是倭國之物實 乃反之 物實 此云望能志呂 是以 知有事焉 非早圖 必後之

天皇の姑の倭迹々日百襲姫命 聰明叡智 能(よ)く未然を識る 乃ち其の歌の怪を知る 天皇に言う 是は武埴安彦 謀反の将 之が表す者也 吾は聞く 武埴安彦の妻の吾田媛 密(ひそか)に来る 之は倭香山の土を取る 領巾(ひれ、女性が肩から垂らす細長い布)で頭を裹(果、つつ)みて祈り曰く 是は倭国の物実 乃ち之を反(かえ)す 物実 此れ云う望能志呂(ものしろ) 是以 有事を知る焉 図るに早いは非ず 必す後にある之

――中略――

天皇 遣五十狹芹彥命 擊吾田媛之師 即遮於大坂 皆大破之 殺吾田媛 悉斬其軍卒 復遣大彥與和珥臣遠祖彥國葺 向山背擊埴安彥 爰以忌瓮 鎭坐於和珥武鐰坂上 則率精兵 進登那羅山 而 軍之

天皇 五十狭芹彦命を遣わす 吾田媛の師(軍)を撃つ 即ち大坂に遮る 皆は之を大破する 吾田媛を殺す 悉く其の軍卒を斬る 復た大彦と和珥臣遠祖の彦国葺を遣わす 埴安彦を撃ちに山背へ向かう 爰(ここ)に忌瓮(いわいべ、神へ供える忌み清めた器)を以て 和珥武鐰坂上に鎮坐する 則ち精兵を率い 那羅山に進み登る 而 之に軍(いくさ)する

倭迹迹日百襲姫

さらに崇神[10]紀は、武埴安彦と吾田媛の謀反を看破した倭迹迹日百襲姫の死について記す。

夜しか会えない夫の大物主に、顔を見たいから朝まで居てほしいと姫が頼むと大物主は、姿を見て驚かないならと、条件つきで応じる。しかし朝、衣紐ほども長い蛇を見た姫が驚いたので、大物主は恥をかかされたと言って御諸山へ飛び去る。姫は仰ぎ見て、しゃがみこんだ拍子に陰部を箸で突いて亡くなる。

崇神[10]紀十年秋七月丙戌朔 壬子 是後
是後 倭迹々日百襲姬命 爲大物主神之妻 然 其神常晝不見而夜來矣 倭迹々姬命語夫曰 君常晝不見者 分明不得視其尊顏 願暫留之 明旦仰 欲覲美麗之威儀 大神對曰 言理灼然 吾明旦 入汝櫛笥而居 願無驚吾形 爰倭迹々姬命 心裏密異之 待明 以見櫛笥 遂有美麗小蛇 其長大如衣紐 則驚之叫啼 時 大神有恥 忽化人形 謂其妻曰 汝不忍 令羞吾 吾還令羞汝 仍踐大虛 登于御諸山 爰倭迹々姬命 仰見而悔之 急居 急居 此云菟岐于 則箸撞陰而薨

是後 倭迹々日百襲姫命 大物主神の妻と為る 然 其神は常に昼は見えずして夜に来る矣 倭迹々姫命は夫に語り曰く 君が常に昼に見えずは 分明(ふんめい、はっきり)に其の尊顏を視るを得ず 暫く之に留まるを願う 明くる旦(あさ)仰ぎ 美麗の威儀に覲(まみ)えるを欲する 大神は対し曰く 言の理は灼然 吾は明くる旦(あさ) 汝の櫛笥に入りて居る 吾の形に驚きの無しを願う 爰(ここ)に倭迹々姫命 心裏で密(ひそか)に之を異(あや)しむ 待り明かす 以て櫛笥を見る 遂に美麗な小蛇有り 其の長大は衣紐の如し 則ち之に驚き叫び啼く 時 大神は恥有り 忽ち人形に化ける 其妻に謂い曰く 汝は忍ばず 吾を羞(恥)か令(し)める 吾は還り汝を羞(恥)か令(し)める 仍て大虚(宙空)を踐(ふ)み 御諸山に登る 爰(ここ)に倭迹々姫命 仰ぎ見て之を悔いる 急居(つきう、しゃがみこむ) 急居 此れ云う菟岐于 則ち箸が陰を撞(つ)きて薨る

神代上第七段(逐降と天岩戸)の一書第一では、素戔嗚が斎服殿に投げ入れた逆剥ぎの斑駒に驚いた稚日女が、所持する梭で体を傷つけ神退る。

古事記上巻では、素戔嗚が忌服屋に投げ入れた逆剥ぎの斑駒に驚いた天服織女が、梭で陰部を突いて亡くなる。

稚日女と倭迹迹日百襲姫の死因は、陰部を損傷するという点が共通する。

古事記上巻
穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所墮入 時 天服織女見驚 而 於梭衝陰上而死 訓陰上云富登

其の服屋の頂を穿ち 天斑馬を逆剥ぎに剥ぎて 所墮とし入れる 時 天服織女が見て驚く 而 梭に陰上(ほと、陰部)を衝きて死ぬ

崇神[10]紀は、倭迹迹日百襲姫を箸墓に葬ったと記す。
その墓を築造するとき人足がうたった歌は「コシ」を繰り返す。これは高志に掛けてあり、倭迹迹日百襲姫が高志の女性であると暗示するものと考える。

崇神[10]紀 十年秋七月丙戌朔 壬子 是後
乃葬於大市 故 時人号其墓謂箸墓也 是墓者 日也人作 夜也神作 故 運大坂山石而造 則自山至于墓 人民相踵 以手遞傳而運焉 時 人歌之曰

乃ち大市に葬る 故 時の人は其墓を号し箸墓と謂う也 是墓は 日や人が作る 夜や神が作る 故 大坂山の石を運びて造る 則ち山より墓に至る 人民は相い踵(つ)ぐ 手を以て遞傳(ていでん、中継して伝え送る)して運ぶ焉 時 人は之を歌い曰く

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂

大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登(のぼ)れる 石群(いしむら)を たごしに越(こ)さば 越しがてむかも

大物主

大物主は、神代上第八段(八岐大蛇)一書第六を根拠に、大国主と同一とされる。

神代上第八段 八岐大蛇 一書第六
大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神

大国主神 亦の名を大物主神 亦の號は国作大己貴命 亦曰く葦原醜男 亦曰く八千戈神 亦曰く大国玉神 亦曰く顕国玉神

――中略――

神光照海 忽然有浮來者 曰 如吾不在者 汝 何能平此國乎 由吾在故 汝 得建其大造之績矣 是時 大己貴神問曰 然則汝 是誰耶 對曰 吾是 汝之幸魂奇魂也 大己貴神曰 唯然 廼知汝是 吾之幸魂奇魂 今 欲何處住耶 對曰 吾欲住於日本國之三諸山 故 即營宮彼處 使就而居 此大三輪之神也

神光が海を照らす 忽然と浮き来る者有り 曰く もし吾が在らずは 汝 何ぞ能く此国を平らぐ乎 由(理由)は吾が在る故(ゆえ) 汝 其の大造の績を建て得る矣 是時 大己貴神は問い曰く 然らば則ち汝 是は誰耶 対し曰く 吾は是 汝の幸魂奇魂也 大己貴神は曰く 唯然り 廼(すなわ)ち汝は是と知る 吾の幸魂奇魂 今 何処に住むを欲する耶 対し曰く 吾は日本国の三諸山に住むを欲する 故 即ち彼の処に宮を営む 就いて居(お)ら使む 此は大三輪の神也

その大国主は、
 本伝では、素戔嗚と奇稲田姫の子(大己貴)
 一書第一では、素戔嗚と奇稲田姫の子の五世孫(大国主)
 一書第二では、素戔嗚と奇稲田姫の子の六世孫(大己貴)
である。

日本書紀を読むコツのひとつに『神は地方勢力を表す』がある。
よって大物主とは、素戔嗚を祖として大己貴を後裔とする氏族が治める勢力と解釈する。

すなわち、素戔嗚も大物主と考える。

奴奈川姫

神代上第八段(八岐大蛇)一書第六に列記された大国主の別名のなかに「八千戈」もある。八千矛が奴奈川姫に妻問いしたエピソードが古事記にあり、これは「神語歌」と呼ばれる。

久比岐の伝承によれば、奴奈川姫は大国主から逃げて自死した。

奴奈川姫伝説その2(『天津神社並奴奈川神社』より)
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。
5.奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。

妻問いには男女の性交がつきものだ。
陰部が傷つくという表現は、女性が望まない婚姻を暗示すると考える。

すなわち、
「稚日女=倭迹迹日百襲姫=奴奈川姫」
が同一人物であり、彼女の不幸な婚姻の相手である
「素戔嗚=大物主=八千矛」
が同一人物である。

天岩戸と日食

2世紀初めの築造と目される小羽山30号墓が、素戔嗚が越前で隆盛した証しなら、逐降は2世紀半ばと考えられる。
そして天岩戸隠れが日食の記録なら、158年の日入帯食が該当する。

恥ずかしながらΔT値については全く理解が及ばないので鵜呑みにさせていただく。
上記PDF掲載の「図4:158年7月13日の日食の食帯図」では、安芸埃宮と阿波国の天磐戸神社が皆既帯にある。また、天磐戸神社の地形は物語に通じると云う。

図4に地名を書き加えた図

記紀編纂時に、阿波国の伝承を元に天岩戸神話が創作された可能性があるだろう。

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