前回の要点:
誓約で生まれた五男神は瀬戸内を含む交易路を指し、宇佐ー対馬間の三女神と合わせ、鉄ていや玉石を流通する大陸との交易路を表す。
鍛冶技術を携え入植した淡路勢は、翡翠の産地である久比岐勢と交流していた。
これより前、伊勢に入植していた饒速日勢は、同じく翡翠の産地である越前東部から東海に入植した尾張勢と交流をもち、畿内に強い影響力を得た。
神武東征の物語は吉野巡幸をもって一区切りとする。続く国見岳からは新章に入る。
神代上第七段 逐降と天岩戸:
高天原で数々の狼藉を働く素戔嗚を許容できなくなった天照が岩戸に籠り、闇に閉ざされた世界を憂える諸神が策を講じて岩戸から天照を引きだして、素戔嗚には罰を科して追い払う。
国見岳八十梟帥と兄磯城
神武[1]紀戊午年 秋 九月甲子朔戊辰。
国見岳の八十梟帥、磐余邑の兄磯城が道を塞ぐ様子を、高倉山から確認した神武は神の教えに従い、椎根津彦と弟猾に天香山の土を取って来させ、その土でつくった器を用いて丹生川上で祭祀を行った。
このとき神武は道臣に「今 以高皇産靈尊 朕親作顯齋」と言う。顕斎(うつしいわい)とは神に見立てる人間のことで、神武は高皇産霊になった。
高皇産霊は、神代下第一段(国譲りと天孫降臨)本伝で、瓊瓊杵を葦原中国の主にすると言いだして国譲りを決行した神だ。その高皇産霊を神武の身に降ろして国見岳八十梟帥と兄磯城を討つということは、国見岳八十梟帥が大国主であり、ここから国譲りが始まることを示唆していると解釈できる。
越前の丹生山地と国見岳
国見と丹生はどちらも珍しくない地名だ。
国見は、いつかの時代のカリスマが国見を行った伝承などが由来になりやすい。 丹生は辰砂(しんしゃ、水銀朱)の産地に名づけられる。
越前は、丹生山地のなかに国見岳がある。
麓には2世紀初めの築造と目される比較的大きな四隅突出型墳丘墓の小羽山30号墓があり、山あいには素戔嗚にまつわる伝承をもつ剱神社と座ヶ岳社がある。
古墳マップ 小羽山30号墳
越前二の宮 剱神社
越前にある小羽山30号墓は突出部を含めた全長が33mあり、四隅突出墳としては大型の部類に入る。
四隅突出墳は中国山地と山陰に多く、小羽山30号墓とほぼ同時期に山陰出雲で大型の西谷3、4、2号墳が築造されている。未発見なだけで他にも大型のものが存在する可能性はあるが、現状ではこの大きさから、小羽山30号墓は山陰出雲の影響を受けた墓制と考えられるだろう。
そして、越前平野には九頭竜川が流れている。
よく言われることだが、首に八つの股があれば頭は九つだ。八岐大蛇を連想させる 河川名も素戔嗚の痕跡と考えられるだろう。
稚日女
誓約で悪意のない訪問であることを証明した素戔嗚は、高天原で狼藉を重ねる。
一書第一は、素戔嗚の悪行が原因で稚日女が神退ったと記す。
稚日女は神宮皇后紀にも登場する。
新羅討伐の帰路、途中で出産した神功皇后は難波へ向かうが、船が廻り進まない。卜ったところ、天照・稚日女・事代主・住吉三神がそれぞれに場所を言うので其処に祀ると、船が進みだした。
神功皇后の出身氏族である息長氏は、琵琶湖・淀川から吉備に到るまでを活動域にした有力氏族で本拠地は近江国、琵琶湖の北東とする説が有力。
息長氏の活動域は、瀬戸内と高志をむすぶ経路に重なる。
神功皇后のエピソードに登場するからには、息長氏と稚日女・事代主には何らかの縁があるのだろう。息長氏の本拠地の有力候補地は越前にも近い。
天香山
神代上第七段(逐降と天岩戸)では、岩戸に隠れた天照を誘き出すために、
本伝は、天香山の五百箇真坂樹を使う。
一書第一は、天香山の金(かね)で作った日矛を使う。
一書第三は、天香山の真坂木を使う。
神武[1]紀では、丹生川上の祭祀のときに神武が、天香山の土で作った器と丹生川上の五百箇真坂樹を使う。
ふたつのエピソードで「天香山」「真坂樹」のキーワードが共通する。
天香山は弥彦神社の祭神と同じ名前だ。
弥彦神社の麓に広がる越後平野、とくに信濃川流域は、縄文時代の火焔型土器のメッカだ。さらに信濃川を遡上して科野に入ったところの長野盆地北部では弥生後期、ベンガラで着色した栗林式土器が作られた。
日本遺産 火焔型土器とは? 縄文時代の遺跡一覧
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