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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

事代主は淡路・久比岐勢に同調した

国譲り本伝()で事代主は海に避ける。一般にこれを自死と解釈するようで、当ブログもそれに順じていたのだが、この既成概念からも脱しようと思う。


日本書紀 国譲り 本伝
故 以熊野諸手船 亦名天鴿船 載使者稻背脛 遣之 而 致高皇産靈尊勅於事代主神 且問將報之辭 時 事代主神 謂使者曰 今天神有此借問之勅 我父宜當奉避 吾亦不可違 因於海中造八重蒼柴 柴 此云府璽 籬 蹈船枻 船枻 此云浮那能倍 而 避之

故 熊野諸手船を以て 亦の名を天鴿船 使者の稲背脛を載せる 之に遣わす 而 事代主神に高皇産霊尊の勅を致す 且つ将報の辞を問う 時 事代主神 使者に謂い曰く 今し天神は此の借問の勅有り 我が父は当に奉り避けるが宜しい 吾も亦た違う可からず 因て海中に八重の蒼柴 柴 此れ云う府璽 籬を造る 船枻を踏む 船枻 此れ云う浮那能倍 而 之を避ける

高皇産霊は淡路勢であり、椎根津彦である久比岐勢と手を組んで兄磯城たち饒速日勢を討伐した。淡路勢は北九州、久比岐勢は科野と深く関係している。北九州は志賀島阿曇氏であり、科野安曇氏と同族ということになっている。

阿曇氏は綿津見三神を祀る海人族だ。
ならば海に隠れるとは、阿曇氏系の海人族に紛れることではないか。つまり、事代主が淡路勢・久比岐勢の側についたことを示唆しているのではなかろうか。

事代主は越前・加賀・越中の西側に根差す勢力のことだろう。
葦原中国を譲った大国主は葦原醜男、つまり饒速日勢と考えられ、これは伊勢津彦ではなかろうか。

【2021/6/7 修正】

国譲り本伝の大己貴は杵築大己貴。
一書第二によれば、大己貴が国譲りを迫られたのは葦原中国の平定後。つまり饒速日勢は既に敗北していた。そしておそらく事代主と並んで恭順する大物主=丹波大己貴だろうから、残るは杵築大己貴のみ。

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