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記紀神話がどのように記そうと、越前の剱神社は素戔嗚を称えている。飛騨の両面宿儺(※)も地元では慕われている。地元とはそういうものだと思うし、そうあるべきとも思う。
そういう点で、喚起泉達録が記す阿彦の伝承は気分の良いものではない。なぜ地元の阿彦が悪しざまに語られねばならないのか。若干の不快感さえ覚える。
この伝承はおそらく余所者の視点で語られているのだろう。
これを、泉達録がもてはやす大若子や大己貴が属する丹波勢の視点とするなら話は単純だが、応神[15]以降の丹波はおとなしい。阿彦討伐は垂仁[11]御代の出来事だから、丹波が越中に干渉できたと思われる期間は三、四世代しかない。地元の言い伝えを捻じ曲げるには時間が足りないように思う。
当ブログは、阿彦=狭穂彦と考える(過去記事:狭穂彦(阿彦峅)の謀反は濡れ衣)。また、高倉下は越中の海人族と考える。
さらに、越中には事代主の後裔がいた可能性がある(過去記事:smalltalk - 孝昭[5]かも?)。婦負郡(富山市・射水市)の杉谷古墳群に四隅突出型墳丘墓があることを考えれば、ありえない話ではないだろう。
そして富山平野の西側を治めたと目される伊弥頭国造は蘇我氏だ。
先代旧事本紀の国造本紀は同祖として江沼国造(石川県加賀市)と三国国造(福井県坂井市・あわら市)を記す。
釈日本紀が記す上宮記逸文は継体[26]の祖を「凡牟都和希王」と記したうえで、横に「譽田天皇也」と添える。ホムタは応神[15]のことだが、ホムツワケが誉津別なら垂仁[11]と狭穂姫のあいだに生まれた皇子のことだ。
国立国会図書館デジタルコレクション 国史大系. 第7巻 釈日本紀巻第十三 第十七 男大迹王。譽田天皇五世孫。彦主人王子也。母曰振姫。:コマ番号354/484
聖徳太子は、父方(用明[31])の祖母が蘇我稲目の娘の堅塩媛、母方(穴穂部間人皇女)の祖母も蘇我稲目の娘の小姉君であり、蘇我系の皇子だ。上宮記のほうが正しい可能性もあるが、蘇我氏に都合の良い歴史改竄である可能性もある。
越中を介して、蘇我氏と事代主になんらかの縁がある可能性も考えられるだろう。国譲りの本伝で事代主が海中に消えねばならなかった理由は、蘇我氏関連かもしれない。
古代越中史が外部勢力により歪められているのは間違いないだろうし、おそらくそれは記紀編纂後のことだろう。
――― 越中一宮メモ ――
越中には一宮が四社もある(全国最多)。東から順に
雄山神社 :立山雄山神・刀尾神
雄山山頂は立山山頂のわずか350mほど南にある。山頂から西方向の称名川(合流して常願寺川)に沿って雄山神社が点在する。喚起泉達録が記す「星城」があった中地山もこのあたり。
氣多神社 :大己貴・奴奈川姫
石川県羽咋市にある氣多大社から勧請したと伝わる。
射水神社 :二上神(二上山)
二上山山頂は射水神社の北方向4.6kmほどにある。標高274m。
髙瀬神社 :大己貴
この地を大己貴が平定した伝承がある。
もう一つの伝承が記す「高麗からきた神」の素性が気になるところだ。