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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

歪められた古代越中史

記紀神話がどのように記そうと、越前の剱神社は素戔嗚を称えている。飛騨の両面宿儺()も地元では慕われている。地元とはそういうものだと思うし、そうあるべきとも思う。


そういう点で、喚起泉達録が記す阿彦の伝承は気分の良いものではない。なぜ地元の阿彦が悪しざまに語られねばならないのか。若干の不快感さえ覚える。
この伝承はおそらく余所者の視点で語られているのだろう。

これを、泉達録がもてはやす大若子や大己貴が属する丹波勢の視点とするなら話は単純だが、応神[15]以降の丹波はおとなしい。阿彦討伐は垂仁[11]御代の出来事だから、丹波が越中に干渉できたと思われる期間は三、四世代しかない。地元の言い伝えを捻じ曲げるには時間が足りないように思う。

豊中歴史同好会 四・五世紀の丹波とヤマト政権
このようにみてくると、四世紀代の丹後山の大首長たちについても同様の事情を想定することができるのではなかろうか。すなわち、①網野銚子山古墳が佐紀陵山古墳および五色塚古墳と同型と考えられること(注3)、②丹後半島の地名を負う竹野媛(たかのひめ)の姉の日葉酢媛(ひばすひめ)の命がヤマトの大王(垂仁)の大后(おおきさき)(皇后)となり、死後、佐紀盾列古墳群が所在する「狭木寺間(さきのてらま)陵」(『古事記』垂仁天皇の段)に葬られたと伝えられていること、③五世紀代になると古墳の規模が縮小すること(五世紀代前半の大首長墳は京丹後市の黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳で、墳丘長一〇〇メートル前後)、などの点からみて、四世紀代の丹波の大首長たちは佐紀政権と極めて親密な関係を有していたが、体制派(忍熊王派)の系列に属していたため、四世紀末の内乱の結果、その勢力が弱体化したことが考えられるのである。

当ブログは、阿彦=狭穂彦と考える(過去記事:狭穂彦(阿彦峅)の謀反は濡れ衣)。また、高倉下は越中の海人族と考える。

さらに、越中には事代主の後裔がいた可能性がある(過去記事:smalltalk - 孝昭[5]かも?)。婦負郡(富山市・射水市)の杉谷古墳群に四隅突出型墳丘墓があることを考えれば、ありえない話ではないだろう。

そして富山平野の西側を治めたと目される伊弥頭国造は蘇我氏だ。
先代旧事本紀の国造本紀は同祖として江沼国造(石川県加賀市)と三国国造(福井県坂井市・あわら市)を記す。

蘇我氏の国造と四隅突出墳丘墓
先代旧事本紀 国造本紀
三國國造
 志賀髙穴穂朝(成務)御世 宗我臣祖彦大忍信命 四世孫若長足尼 定賜國造
江沼國造
 柴垣朝(反正)御世 蘇我臣同祖武内宿祢 四世孫志波勝足尼 定賜國造
伊弥頭國造
 志賀髙穴穂朝(成務)御世 宗我同祖建内足尼 孫大河音足尼定 賜國造

釈日本紀が記す上宮記逸文は継体[26]の祖を「凡牟都和希王」と記したうえで、横に「譽田天皇也」と添える。ホムタは応神[15]のことだが、ホムツワケが誉津別なら垂仁[11]と狭穂姫のあいだに生まれた皇子のことだ。

wikipedia 上宮記
7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。 ――中略―― 編者は不詳。上・中・下の3巻から成るか。 ――中略―― 神代の記述も存在したらしいが、まとまった逸文は継体天皇・聖徳太子関連の系譜で占められる。

聖徳太子は、父方(用明[31])の祖母が蘇我稲目の娘の堅塩媛、母方(穴穂部間人皇女)の祖母も蘇我稲目の娘の小姉君であり、蘇我系の皇子だ。上宮記のほうが正しい可能性もあるが、蘇我氏に都合の良い歴史改竄である可能性もある。

越中を介して、蘇我氏と事代主になんらかの縁がある可能性も考えられるだろう。国譲りの本伝で事代主が海中に消えねばならなかった理由は、蘇我氏関連かもしれない。

古代越中史が外部勢力により歪められているのは間違いないだろうし、おそらくそれは記紀編纂後のことだろう。

――― 越中一宮メモ ――

越中には一宮が四社もある(全国最多)。東から順に

雄山神社 :立山雄山神・刀尾神
雄山山頂は立山山頂のわずか350mほど南にある。山頂から西方向の称名川(合流して常願寺川)に沿って雄山神社が点在する。喚起泉達録が記す「星城」があった中地山もこのあたり。

氣多神社 :大己貴・奴奈川姫
石川県羽咋市にある氣多大社から勧請したと伝わる。

射水神社 :二上神(二上山)
二上山山頂は射水神社の北方向4.6kmほどにある。標高274m。

髙瀬神社 :大己貴
この地を大己貴が平定した伝承がある。
もう一つの伝承が記す「高麗からきた神」の素性が気になるところだ。

越中一宮 髙瀬神社
「在昔、大己貴命北陸御経営ノ時、己命ノ守リ神ヲ此処ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、国成リ竟ヘテ、最後に自ラノ御魂ヲモ鎮メ置キ給ヒテ、国魂神トナシ、出雲ヘ帰リ給ヒシト云フ。」(高瀬神社誌15~16頁)
「此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着の日7月14日なりと、御神御足袋を濯せ給ふ流を、たび川と名つけ、此川の辺に暫時御休み、高瀬へ御移の間、俄に雨降、御神雨をくくると仰られしと也。よって其処を、今に雨潜村といふ也。其後毎年たひ川の辺御休の処へ御旅行なされ、其処を宮守と唱へ、今以江田村領を流るる也。」(越之下草3頁)
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