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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

自説変更:再戦時の長髄彦=伊勢津彦配下

3/6に「再戦時の長髄彦=国譲りの大国主」という記事を書いたが、取り消す。
たびたび出雲贔屓を非難してきたくせに、その影響下から私もまだ抜け出せていなかった。既成概念を払拭することは斯くも難しい。


大国主は皇統と対立したはずという思い込みから、杵築大己貴が経津主である物部氏に討伐されるストーリーを想定していた。これが間違いの元だ。宇摩志麻遅が山陰で討伐した凶賊が、杵築大己貴と対立する勢力である可能性を考えるべきだったのに、思いつきさえもしなかった。

石見国一宮 物部神社 御由緒
御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。

杵築大己貴が、ヤマト建国の立役者である淡路勢・久比岐勢と対立しなかったなら、長髄彦はどこの勢力なのか。と考えると、地理的にも時期的にも丁度よく該当するのが伊勢津彦だ。

伊勢津彦に関しては以前wikipedia素賀国造の記事を参考に、伊勢津彦の子が素賀国造の美志印だと書いた(過去記事:伊勢は邇藝速日を祀っていた)のだが、wikipedia以外で見かけないので、少々難ありの情報かもしれない。

だが今でも、伊勢津彦は饒速日勢だろうと考えている。
以前、葦原醜男は物部氏(饒速日勢)ではないかと推測した(過去記事:兄磯城=天稚彦=彦湯支=(欝色雄または大綜麻杵)=?)。古事記によれば葦原醜男は素戔嗚の娘の須世理毘売を娶った。饒速日勢は越前八千矛と通じていたから、逐降からの流れで淡路・久比岐勢と対立したのではなかろうか。

そして伊勢津彦も物部氏だから対立したのではないか?
伊勢津彦が素戔嗚に属する勢力であれば、八岐大蛇の一書第四()が記す五十猛(素戔嗚の子)の伝承につながるだろう。

紀伊国一宮 伊太祁曽神社

八岐大蛇 一書第四
諸神 科以千座置戸 而 遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 ――中略―― 初 五十猛神 天降之時 多將樹種而下 然 不殖韓地盡 以持歸 遂始自筑紫 凡大八洲國之內 莫不播殖 而 成靑山焉 所以 稱五十猛命 爲有功之神 即紀伊國所坐大神 是也

諸神 千座の置戸を以て科す 而 遂に之を逐う 是時 素戔嗚尊 其の子の五十猛神を率い 新羅国に降り到る ――中略―― 初め 五十猛神 天降る之時 多くの樹種を率いて下る 然 韓地に殖えぬまま 持ち帰るを以て 遂に筑紫より始め すべて大八洲国の内 播き殖えずは無し 而 青山に成る焉 所以 五十猛命を称え 有功の神と為す 即ち紀伊国に所坐す大神 是也

五十猛という神が日本じゅうに植樹したとは毛の先ほども思わないが、紀伊国に祀られるだけの筋の通った理由はあると考える。

【記事タイトル修正 2021/6/4】

修正前:自説変更:再戦時の長髄彦=伊勢津彦
修正後:自説変更:再戦時の長髄彦=伊勢津彦配下

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