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磐長姫が「其生兒 必如木花之移落(其の生す兒 必ず木花の移ろい落ちるが如し)」と呪った(※)はずだが、初期天皇には長寿が多い。
仁徳[14]が最後の長寿天皇で、wikipediaによれば110才で崩じたという。
神武[1]から継体[26]までの治世年数を書きだすと、
神武76 綏靖33 安寧38 懿徳34 孝昭83 孝安102 孝霊76 孝元57 開化60 崇神68 垂仁99 景行60 成務60 仲哀9 (神功69) 応神41 仁徳87 履中6 反正5(6) 允恭42 安康3 雄略23 清寧5 顕宗3 仁賢11 武烈8 継体23
仁徳以前では、仲哀[14]の治世9年が目立って短い。
履中[17]以降は短期治世が多いなかで、允恭[19]と雄略[21]が程よい治世年数になっている。
履中[17]は仁徳[16]と葛城襲津彦の娘の磐之媛の皇子で、反正[18]と允恭[19]は同母弟であると記紀は記し、磐之媛を皇族出身ではない初の皇后とする。
顕宗[23]と仁賢[24]は履中の孫、武烈[25]は曾孫にあたる。
また安康[20]は履中皇子の市辺押磐皇子に皇位を継承させるつもりでいたと、雄略紀は記す。
程よい治世年数の允恭[19]と雄略[21]に注目すると、允恭は襲津彦の孫の玉田宿禰を討ち、雄略は同じく孫の円大臣を殺めている。
また、国宝北野本は反正の治世を6年と記す。
もしも6年のほうが正しいなら、以下の出来すぎた計算式が成り立つ。
允恭42 = 履中6+反正6+安康3+清寧5+顕宗3+仁賢11+武烈8
国立国会図書館デジタルコレクション 日本書紀 : 国宝北野本. 巻第12 :コマ番号14/15
治世年数の長短は、編纂者により恣意的に設定されているのではなかろうか。
この時期のヤマトには襲津彦の系統と、これに抵抗する勢力が存在しており、対立する双方が天皇として記されているのでは?
関連して、仲哀の前の成務[13]と、履中の前の仁徳[16]が善政を行ったとすることにも意図があると思う。これは、前回記事において当ブログが唱えた仲哀簒奪者説の根拠でもある。