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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

仲哀[14]は簒奪者

記紀は仲哀[14]を、日本武と両道入姫命(垂仁[11]皇女)の子で、成務[13]の甥と記すが、誕生年の問題が指摘されている。


wikipedia 両道入姫命

記紀ともに一致して記載している仲哀天皇の享年から計算できる生年(成務天皇18年・148年)が日本武尊の死去から36年後にあたるという矛盾を抱えており、日本武尊と仲哀天皇、そして両者をつなぐ存在である両道入姫命が本当に実在していたかどうかは不明である。

これを根拠に応神新王朝説を唱える向きが多いが、当ブログは仲哀[14]簒奪者説を提唱する。仲哀の子である忍熊王が素戔嗚を敬い、剱神社に祀った伝承から、仲哀および忍熊王は素戔嗚の後裔氏族である丹波氏の可能性が高いと考える。

越前町 織田文化歴史館 展示解説

第4章 劔神社の信仰 (1)劔神社の歴史/神体山信仰

 劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部郷の住民が座ヶ岳(標高310m)の峰に素戔嗚大神の神霊を祀ったと伝えられる。その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を素盞嗚尊の御霊代(御神体)として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられている。
 また、劔神社は、仲哀天皇第2皇子の忍熊(おしくま)皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係がある。

仮に仲哀[14]が実在しないとしても、丹波勢による簒奪はあっただろう。
日本武についても、阿彦(=狭穂彦)討伐における大若子の草薙剱のエピソードが事績に盛り込まれていることから、丹波勢を象徴する存在と考える。

この丹波氏に対抗した勢力の代表格が息長氏だろう。
息長氏は琵琶湖北岸から淀川、吉備へ至るまでに痕跡を残しており、ヤマト建国の立役者である淡路勢と久比岐勢を結ぶ経路上に存在した有力氏族だ。仮に神宮皇后が実在しないとしても、応神[15]もまた垂仁[11]同様に、淡路勢と久比岐勢の流れを汲んでいる可能性が高い。

wikipedia 息長氏

息長氏(おきながうじ)は、「息長」を氏の名とする氏族。古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地(河内説、播磨・吉備説も有る)とした古代豪族である。

神宮皇后の事績は、久比岐青海氏・科野安曇氏と北九州阿曇氏によるものだろう。
実際に、久比岐・科野から北九州へ出向いた女性がいたのかもしれない。弥生中期には北九州で翡翠が使われており、大陸との交易品だったと見られるため、北九州側が無暗に翡翠の産地を軽んじることはなかったと推測する。

2.5. 消費地の動向

① 管玉とヒスイ勾玉の使用は、弥生時代前期末~中期初頭に、青銅製品使用と軌を同じくして福岡の有力者層間で始まり、やや遅れて唐津と宗像でも使用が始まった。
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