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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

狭穂彦(阿彦峅)の謀反は濡れ衣

喚起泉達録は江戸時代(享保、吉宗[8])に富山藩士の野崎伝助が著した越中郷土史。伝助の孫の野崎雅明は越中通史の肯構泉達録を著した(文化、家斉[11])。
上記二書は、越中の阿彦が大若子に退治される話を収録している。


国立国会図書館デジタルコレクション 肯構泉達録

喚起泉達録が記す阿彦について、ファンタジー色を抜いて大雑把にまとめると。
(1)北陸道へ派遣された大彦は、越中を手刀摺彦に任せ帰洛した。
(2)阿彦峅も走長に任じられたが、大彦の帰洛後はこれに従わず、民を虐げた。
(3)阿彦峅の姉の支那夜叉は越後黒姫山の邵天義に嫁ぎ支那太郎を生んだ。苛烈な気性の母子は、温厚な邵天義の殺害を企てたが察知され、越中阿彦峅の元へ帰された。
(4)阿彦峅らの暴虐を恐れて従う者もいて、阿彦勢力は拡大した。
(5)手刀摺彦も豪族をまとめ対抗したが勝てなかった。そこで帝に上奏して官軍を要請した。
(6)大若子が派遣され、苦戦するもなんとか阿彦を討伐した。

大若子の弟の乙若子が、伊勢外宮宮司を世襲する度会氏の祖。
伊勢外宮の祭神である豊受大神は丹後国の籠神社に祀られていたが、雄略[21]の御代に天照の神託によって丹波(丹後)から遷座したと伝わる。

wikipedia 度会氏

度会氏の祖は天牟羅雲命(天児屋命の子)であると伝えられ、伊勢国造の後裔であるとされる。しかし彦坐王の後裔・丹波国造の一族の大佐々古直が石部直渡会神主の祖と系図に見えており、後者が実際の系図であったとされる。当初は磯部氏を称していたが、奈良時代に渡会(渡相)神主姓を下賜されたという。

籠神社 奥宮 真名井神社

大若子は丹波勢。つまり丹波が越中を攻め落とした。
丹波の首長である丹波道主は彦坐王の子で、垂仁[11]二人目の皇后日葉酢媛の父。

支那夜叉が垂仁[11]一人目の皇后狭穂姫なら、跡目争いの可能性がある。

日本書紀の垂仁[11]紀で狭穂彦討伐を任じられたのは上毛野国造の祖の八綱田。
崇神[10]皇子である豊城入彦の子で、彦狭島の父、御諸別の祖父()。 豊城入彦の母は紀伊国荒河戸畔の娘。

垂仁紀は、狭穂彦討伐の功により「倭日向武日向彦八綱田」の名を賜ったと記すが、この名は八綱田の後裔氏族が従事する東国統治の任務を象徴するもので、狭穂彦とは関係ないと解釈されている。
一部の嘘が判明したからといって全てが嘘とは言えないが、狭穂彦討伐に八綱田が関与してなかった可能性を検討する余地は大いにあるだろう。

先代旧事本紀 国造本紀

上毛野國造
 瑞籬朝(崇神)皇子豊城入彦命 孫彦狭島命 初治平東方十二國為封

wikipedia 八綱田

『日本書紀』崇神天皇段には、豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖であり、三輪山に登って東に向かい槍や刀を振り回す夢を見たと記されている。三輪山の位置する大和国城上郡には式内大社として神坐日向神社が記載されていることから、「倭日向建日向」の名はヤマト王権の東国経営に従った上毛野氏の任務を象徴するものと解されている。彦狭島王の父とされるが、御諸別王の活同年代を考えると実際には八綱田命と彦狭島王が同一人物であったと見られる。

喚起泉達録の「手刀摺彦越之地ヲ司シ尚郷人ヲ定事」に、手刀摺彦が十二方位の城に在地豪族を配置したとある。記述があるのは卯辰(巳)午未(申)酉(戌)亥で、そのうち巳申戌は越中四郡に無いとし、卯辰午未酉亥の六城についてのみ詳細が記されている。

さらに、卯辰山ノ城を中央城(なかち城)と定め、一説には星城とも云うと記す。
この城にある星石が空へ昇り光る様子から吉凶を知れるというのだが、非現実的で難解なので割愛する。ともかく、手刀摺彦が定めた中央城には星城という異名がある。

この地名は、伝助の時代(享保)には「中地」と誤って伝わっているとも記す。
現代の地図では、富山県富山市中地山は立山山頂から西へ20kmほどの所にある。

星関連では他に、大若子の指揮のもと佐留太と甲良彦が支那夜叉を追い詰めたとき、阿彦配下の強狗良の鉾が佐留太の鉾の鉄鍔(つみは)にあたり破壊して、鉄鍔が飛んで立山の中程に落ちて美加保志になったと記す。

さて、ミカホシといえば天津甕星(天香香背男)だ。
出雲国譲り本伝では、經津主と武甕槌と建葉槌が出雲国譲り後に天津甕星を討伐した。一書第二では、經津主と武甕槌が出雲国譲り前に天津甕星を討伐した。

当ブログは、出雲国譲りは崇神[10]紀にも出雲振根討伐として記されていると見ている(過去記事:自説再考)。
出雲振根討伐は崇神60年、68年に崩御した崇神の晩年の出来事として記されている。狭穂彦討伐は垂仁5年の出来事で、出雲振根討伐から約13年後の計算になる。

越中の阿彦峅=狭穂彦なら、天津甕星討伐は狭穂彦討伐に相当するだろう。

神武東征のなかで天津甕星討伐に相当する出来事は、消去法ではあるが、高尾張邑の赤銅八十梟帥(土蜘蛛)討伐ではないかと推測した。また、尾張氏のルーツが高尾張邑である可能性も考えた。(過去記事:高尾張邑の赤銅八十梟帥=?

ひとつ、自説を変更しなければならない。
上記の記事を書いた時点では、高尾張邑は畿内にあると考えていた。しかし喚起泉達録を考慮に加えると、越中が高尾張邑になる。

厳しい山道だが、白川街道は尾張国と越中国を結んでいる。
尾張氏の祖である高倉下は、久比岐青海氏の祖である椎根津彦と従兄弟だ。
尾張氏のルーツが越中ならば、従兄弟とする系図もしっくりくる。

また、狭穂姫と誉津別にまつわる尾張国風土記の逸文が、釈日本紀に記されている。
狭穂姫と誉津別の母子が尾張と縁があるからこそ風土記に記されたのではないか。
尾張国造は、平安後期まで熱田神宮の大宮司を世襲した尾張氏だ。

国立国会図書館デジタルコレクション 国史大系. 第7巻 釈日本紀巻第十 誉津別命。及壮而不言。 コマ番号337/484

wikipedia 誉津別命

さらに、『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。

先代旧事本紀 国造本紀

尾張國造
 志賀髙穴穂朝(成務) 以天別天火明命 十世孫小止与尊 定賜國造

熱田神宮は熱田大神のほかに草薙剣も祀っている。
喚起泉達録は、大若子が火に巻かれたとき剱が自ら抜けて周囲の草を薙払い、炎を食い止めたのでこの剱を草薙剱と称えると記す。日本書紀は類似の話を景行[12]40年10月、東征に赴く日本武のエピソードとして記す()。

天津甕星を地主神として祀る常陸の大甕神社は、天津甕星を討伐した建葉槌も主神として祀る。越中阿彦峅を誅したとき大若子が携えていた草薙剱を、尾張氏が熱田大神とともに祀る。
やはり熱田大神=天津甕星であり、狭穂彦=阿彦峅ではなかろうか。

以上から推測すると。
垂仁[11]は越中の狭穂姫とのあいだに誉津別を儲け、丹波の日葉酢媛とのあいだに景行[12]らを儲けた。越中と丹波は垂仁の跡目を巡って争い武力衝突まで発展。結果、勝利した丹波は日葉酢媛の妹達も嫁がせて垂仁を囲い込んだ。
という話ではなかろうか。

狭穂彦が謀反を企てたとか、阿彦峅・支那夜叉が悪逆であるとかいう伝承は、勝者を正当化するための虚偽ではないかと思う。

【2021/6/10 追記】

初稿に「白川街道は尾張国と越中国を結んでいる」と書いたが、飛騨・高山・下呂を通過するルートも越中国と尾張国を繋いでいる。飛騨国造が尾張氏なので、飛騨街道のほうが主要ルートだったかもしれない。

斐陀國造
 志賀髙穴穂朝御世。尾張連祖瀛津世襲命 _大八椅命 定賜國造
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