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当ブログでは『仮説』という語句を「妄想のなかで貫かれる理屈」と定義して、今後は、鵜呑みにしてはならない記事への注意喚起として表題に使用する。
たとえば、この記事のような類いである。
何年前か覚えてないが、ネットのどこかで「伊勢神宮の内宮に死体が埋まっている」というオカルト話を読んだ。垂仁[11]紀にある殉死者のご遺体だと云う。
あまりの凄惨さに、垂仁は殉死を禁じる。そして三十二年に亡くなった皇后の日葉酢媛は、殉死に代えて埴輪を陵墓に立てて葬った――と垂仁紀は記すが、埴輪の起源はもっと遡れるうえに、殉死のご遺体も未発見であるため、この逸話は史実ではないと一般に考えられている。
筆者が見かけたオカルト話では、埴輪の起源譚は創作だとしても、生き埋めにされて亡くなった人々はいたと解釈するのだろう。
また垂仁紀は、倭姫が天照の坐す所を伊勢に定めたと記す。倭彦と倭姫、名前が似ていることから、倭彦が伊勢に葬られたという話になったのではないかと思う。
倭姫は日葉酢媛が生んだ垂仁皇女、倭彦は御間城姫が生んだ崇神皇子だ。
ただし筆者は、吉備津彦を吉備の豪族、丹波道主を丹波大己貴、豊城入彦を関東の豪族、倭迹迹日百襲姫を奴奈川姫と考えており、初期天皇の子女は必ずしも血族によらないと見ている。したがって倭姫と倭彦は、実際は倭氏のヒメとヒコだろうと推測している。
もしも本当に、倭彦と殉死者が伊勢の内宮に埋められているならば。
伊勢国造の天日鷲が、倭彦と同一人物とは考えられないだろうか。
伊勢国風土記逸文に、天日別(中臣氏祖)が伊勢津彦に立ち退きを迫った説話があるため、一般には国造本紀の天日鷲は天日別の誤記と考えられている。
だが、すっかり中臣氏に猜疑心を抱いている筆者には、国造本紀より伊勢国風土記の記述のほうが怪しく思える。
長髄彦討伐後、神武(大彦)に帰順した饒速日(伊勢津彦)が伊勢に椎根津彦(倭氏祖)を招いたのではないか?
さらに、地上波放送でキングダムを視聴している筆者は勘繰る。その伊勢へ天日別が侵攻して、倭彦を殺害したうえで捕虜を埋めたのではないかと。
秦国六大将軍の白起が長平で趙国の捕虜を埋めたアレである。
現在、中臣氏へ向ける筆者の印象は落ちぶれ果てているのだ。