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応神[15]=誉津別ならば、父である垂仁[11]の生きた時代は記紀の記述より降る。
記紀編纂時に辿れた皇統の父系の最古が垂仁だったか?
知り得る最古の祖先だから実際より古い時代に偽ったか?
垂仁[11]から仁徳[16]までの即位順と親子関係は、史実と異なるかもしれない。
垂仁は仲哀[14]の一世代前か?
景行紀は九州の動乱を多く記す。
景行[12]は、2世紀後期の人物とは考えられないか?
倭国大乱 近畿説 | 倭国大乱 九州説 | |
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2世紀中期 | 158年 天岩戸日食 | 158年 天岩戸日食 逐降(素戔嗚放逐)=国見岳八十梟帥討伐=武埴安彦討伐 兄磯城討伐、長髄彦討伐 大彦=後半の神武[1]、椎根津彦 |
2世紀後期 | 〇倭国大乱 逐降(素戔嗚放逐)=国見岳八十梟帥討伐=武埴安彦討伐 兄磯城討伐、長髄彦討伐 大彦=後半の神武[1]、椎根津彦 |
〇倭国大乱 景行=瓊瓊杵 神夏磯媛、速津媛、市鹿文、御刀媛(豊国別の母) 日本武の熊襲討伐 |
3世紀前期 | 〇纏向遺跡 | |
3世紀中期 | 〇238年 難升米訪魏 | |
3世紀後期 | 〇箸墓古墳 | |
4世紀前期 | 景行=瓊瓊杵 神夏磯媛、速津媛、市鹿文、御刀媛(豊国別の母) 日本武の熊襲討伐 |
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4世紀中期 | 垂仁?(継体を5世紀前期として100年3世代で数える) | |
4世紀後期 | 〇382年 百済記「沙至比跪」 海幸=仲哀[14]=沙至比跪=日向襲津彦(阿牟君の祖、景行皇子) 山幸=豊国別(日向国造の祖、景行皇子) 神功皇后、忍熊王 誉津別=応神? |
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5世紀前期 | 〇414年 広開土王碑 |
豊国別が山幸ならば、景行が瓊瓊杵だろう。
瓊瓊杵は、一夜の契りで鹿葦津姫が妊娠したことを信じられず「必非我子歟(必ず我が子に非ず)」と言うが、鹿葦津姫に身の潔白を証明され、生まれた子を認知する。
この逸話は、景行が80人の子沢山であることとリンクするのではなかろうか。
景行=瓊瓊杵なら、高皇産霊は信越。
瓊瓊杵=景行を、北九州へ行かせた。
景行が2世紀後期の人物なら、纏向の政治に参画するにあたって挨拶に行ったか?
高皇産霊が信越なら、神皇産霊は北九州。
山陰の大己貴を幾度も助けた。