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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

出雲は野心的な軍事国だった

山陰から受けた影響の度合いで高志を分けると、非常に少ない久比岐・能登、限定選択導入の越中・加賀、そして濃い越前になる。高志の西端は越前だが弥生末期には、西隣の若狭と近しい傾向があったようにみえるので越前・若狭をまとめたい。

出雲国風土記は、大国主が「越の八口」を平定したと記す。
平定とは武力を行使した側での言い方であって、大概にして制圧された側では侵略、または弾圧などと言う。
「越の八口」は越前・若狭辺りが有力ではないかと思う。

出雲は東方面を武力で圧迫していた。
西はといえば、のちに宗像三女神になった田心姫・湍津姫と大国主が婚姻を結んだ。
記紀神話の宗像三女神は、天照と素戔嗚の誓約により誕生して、素戔嗚の娘になっている。このことから、婚姻により宗像地方を勢力下に収めたと推測する。

宗像三女神は朝鮮半島と繋ぐ海路を守護する玄界灘の神だ。
日本書紀では八岐大蛇の段の一書第五で、高天原を追放された素戔嗚は出雲へ行く前に新羅へ行ったとある。これを反映するなら、婚姻により宗像地方を押さえて新羅との交易ルートを確保したと考えられる。

弥生時代、朝鮮から鉄を輸入していた。日立金属のWebページを参照する。

日立金属 鉄の加工の始まり

鉄鉱石・砂鉄からつくる本格的な製鉄の開始は古墳時代中期(5世紀)が定説。
『魏志』東夷伝弁辰条は、倭は市場で鉄を中国の銭のように用いたと記す。原料の鉄を大陸で求め、輸入して国内で加工したとみられる。

日立金属のテキストは、本格的な製鉄の開始が弥生時代後期(3世紀)に遡る可能性に触れているが、現在のところ否定的な研究結果に説得力があるようだ。

国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
研究史からみた弥生時代の鉄器文化 : 鉄が果たした役割の実像
190ページから引用
 上述したように,1960 年代から 1970 年代には,弥生時代に製鉄が存在したと考える立場にも 2通りあった。その一つ,未熟な小規模鉄生産が自生したとする考え方は史的唯物論による演繹的な推論によるものであり,多量の鉄刃農耕具の製作に見合った鉄生産量が前提として必要となることからといえる。一方で,韓半島から製鉄技術が導入されたとする考え方があった。弥生時代中期後葉から後期の消耗品ともなる鉄鏃の出土数からみた帰納的な結論としてその存在を仮定したのである。
      ~ 中略 ~
 このようななか,出土鉄滓などの金属学的分析を多く手がけた大澤正己は,鉄滓に含まれる夾雑介在物の鉱物組成などの分析によって製錬滓と鍛冶滓の区別に成功する。佐々木らが製錬滓と判定した下前原遺跡出土鉄滓を鍛冶滓として否定し,古墳出土の鉄滓のなかに製錬滓が含まれはじめるのは古墳時代後期後半以降とした。つまり,鉄生産もそれ以前には遡らないと判断したのである [大澤 1977] 。その後,福岡県潤崎遺跡出土鉄滓を古墳時代中期後半の砂鉄製錬による製錬滓と認定し,木炭窯が須恵器窯業技術と共通するという間接的証拠から,古墳時代中期中葉ごろから九州北部などの一部で鉄製錬が開始されたと修正した [大澤 1983] 。潤崎遺跡出土鉄滓についてはその分析に懐疑的な意見が投げかけられたが,鉄滓の理化学分析が進むなかで,吉備周辺地域における古墳時代後期の製鉄遺跡の発掘調査も行われ,1980 年代後半には,大澤の見解は妥当なものとして受け入れられた。と同時に弥生時代に原始的な製鉄技術が普及したとする考え方は次第に陰りをみせていった(5)
鉄は朝鮮からの輸入が一般的だったと考えていいらしい。
だからといって出雲が鉄を目的に宗像を掠め取ったとは断定できないが。
周辺地域を脅かしてでも大国になろうとしたのは間違いないだろう。
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