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上述したように,1960 年代から 1970 年代には,弥生時代に製鉄が存在したと考える立場にも 2通りあった。その一つ,未熟な小規模鉄生産が自生したとする考え方は史的唯物論による演繹的な推論によるものであり,多量の鉄刃農耕具の製作に見合った鉄生産量が前提として必要となることからといえる。一方で,韓半島から製鉄技術が導入されたとする考え方があった。弥生時代中期後葉から後期の消耗品ともなる鉄鏃の出土数からみた帰納的な結論としてその存在を仮定したのである。鉄は朝鮮からの輸入が一般的だったと考えていいらしい。
~ 中略 ~
このようななか,出土鉄滓などの金属学的分析を多く手がけた大澤正己は,鉄滓に含まれる夾雑介在物の鉱物組成などの分析によって製錬滓と鍛冶滓の区別に成功する。佐々木らが製錬滓と判定した下前原遺跡出土鉄滓を鍛冶滓として否定し,古墳出土の鉄滓のなかに製錬滓が含まれはじめるのは古墳時代後期後半以降とした。つまり,鉄生産もそれ以前には遡らないと判断したのである [大澤 1977] 。その後,福岡県潤崎遺跡出土鉄滓を古墳時代中期後半の砂鉄製錬による製錬滓と認定し,木炭窯が須恵器窯業技術と共通するという間接的証拠から,古墳時代中期中葉ごろから九州北部などの一部で鉄製錬が開始されたと修正した [大澤 1983] 。潤崎遺跡出土鉄滓についてはその分析に懐疑的な意見が投げかけられたが,鉄滓の理化学分析が進むなかで,吉備周辺地域における古墳時代後期の製鉄遺跡の発掘調査も行われ,1980 年代後半には,大澤の見解は妥当なものとして受け入れられた。と同時に弥生時代に原始的な製鉄技術が普及したとする考え方は次第に陰りをみせていった(5)