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【2021/2/17 自説変更(詳細は末尾)】
変更前:久比岐が出雲の勢力下にあった期間は短い
変更後:久比岐が出雲の勢力下に入ったことはない
* * *
四隅突出塑墳丘墓として確実なものは、福井県に小羽山墳墓群6基と高柳2号墓の7基、石川県に旭遺跡群一壕21号墓の1基がある。富山県では昭和49年に婦中町の北に接する富山市に杉谷4号境が発見されて以後、千坊山遺跡群で6基を調査しており、全部で7基を数える他、可能性が高いと考えられるものに富山市の呉羽山丘陵No.6・10・18古墳、小矢部市の北一墳墓群の4基がある。北陸全体を通して未調査部分が多く、今後類例が増加する可能性も高い。
北陸における四隅突出型墳丘墓の受容と造営については諸説あるが、前田清彦氏は①山陰一山陽では下位レベルにおいても他地域首長との政治的交流が土器交流を始めとした葬送祭祀に現れているが、北陸では墳形を採用しながらも在地の祭祀土器を用い葬送祭祀の大部分を在来の方式で執行、墓制の属性を選択的に受容しており、交流の基盤が根本的に異なる、②受容・造営は北陸主導型。現段階資料では北陸内部での四隅突出型墳丘墓をシンボルとする首長連合は形成されておらず山陰対北陸一地域の首長間交流にとどまる。地域首長の対外的政治方策の最善の後ろ盾として造営され、それゆえに単発的であり北陸伝統の埋葬習俗を改変することなく墳形のみが強調されたと分析している(前田1995)。
越前の四隅突出型墳丘墓は山陰の影響が濃いが、越中では墳墓の形状を取り入れたものの葬送儀礼などは地域性を維持したと見られている。I期(法仏式期)は出現期。富崎グループ(高地性集落)と鍛冶町グループ(平野の集落)が出現し、ムラ長を始めとする特定個人墓として四隅突出型墳丘墓を築造する特殊な墓制が成立した。
Ⅱ期(月影I式期)は成立期。本遺跡群を構成した4グループ(富崎・鍛冶町・千坊山・南部)が揃い、相互に等質的な農業共同体を形成した。各集団は共通して四隅突出型墳丘墓を築造し、同じ集団内の特定個人間においては墳丘規模に身分差が反映された。この墓制は県内ではほぼこの一帯に限られ、限定した分布や「千坊山型」ともいえる地域性から考えると、一地域の自立的共同体が海・陸路ルートで交流した他地域の墓制を固有のものとして消化してから在地的墓制の中に取り入れたものと推測される。他系統の墓制を一過性的に受容した背景には、富山平野が政治的に統合されていく社会的変革期を目前に、他地域の首長連合のシンボル的墳形を掲げることで井田川・山田川合流域の地縁集団の結束を強化し、勢力を他に顕示する目的があったのではないか。
【2021/2/17 追記】
2021/2/17にあげた記事『道臣が忍坂で討った土雲八十建=八千矛』にて自説を変更した。
神武東征が、神代の誓約から国譲りまでと同様に、倭国大乱を表すと解釈して、「国見岳の八十梟帥=神逐の素戔嗚」「忍坂の土雲八十建=八千矛」の自説を導き出した結果、「八千矛は越前の勢力」であると推測した。
2021/2/17現在の当ブログは、久比岐は一時たりとも出雲の勢力下には入ってないと考えている。