忍者ブログ
素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

出雲は敗者であって被害者ではない

世間では、大和に屈服させられた可哀そうな出雲、という風潮がうっすら存在するように感じる。しかし、可哀そうな出雲など存在しないと私は考える。

倭国大乱と呼ばれる時代に西日本で勢力を保有するには、軍事力が不可欠だったはずだ。当然のこと、出雲も相応の軍を所持し、行使したであろう。戦争無くして勢力の維持拡大はありえない時代だ。

出雲もまた軍事国だった。
支配地域の拡大を目論む二国が争い、大和が勝って出雲が敗れただけのこと。

大和と出雲、二国は久比岐が産する翡翠の占有権を求めたと考えられる。
翡翠の産地である久比岐をめぐって対立した。
これを高志の視点で考えれば、出雲は侵略者その1で、大和は侵略者その2だ。
目くそ鼻くそである。
可哀そうなのは高志だろう。

翡翠は昭和初期まで、日本国内から産出したことを忘れられていた。
そのため、記紀神話における翡翠及び高志の存在感は見落とされてきたと思われる。



翡翠の再発見に関する資料

〇 糸魚川市 ヒスイって何だろう
ヒスイの発見
 昭和13年(1938) 、夏前のこと。糸魚川の偉人・相馬御風が知人の鎌上竹雄さんに、昔、糸魚川地方を治めていた奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話をしたそうです。
 鎌上さんは親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)に住む伊藤栄蔵さん にその話を伝え、伊藤さんは地元の川を探してみることにしました。
 8月12日、伊藤さんの住む小滝を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色のきれいない石を発見しました。
 昭和14年(1939)6月、この 緑の石は、鎌上さんの娘さんが勤務していた糸魚川病院の院長だった小林総一郎院長を通じて、院長の親類の東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼先生へ送られました。
 河野先生が神津俶祐教授の所有していたビルマ(ミャンマー)産のヒスイと偏光顕微鏡や化学分析で比較した結果、小滝川で採れた緑色の岩石はヒスイであることが科学的に証明されました。
 昭和14年(1939)7月、河野義礼先生による現地調査によって、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、この年の11月に岩石砿物砿床学という 東北大学が中心となって発行していた学術雑誌に論文が掲載されました。

〇 万葉集ナビ 万葉集 第13巻 3247番歌
沼名河之 底奈流玉 求而 得之玉可毛 拾而 得之玉可毛 安多良思吉 君之 老落惜毛 ――ぬながはの そこなるたま もとめて えしたまかも ひりひて えしたまかも あたらしき きみが おゆらくをしも

〇 Wikipedia 万葉翡翠(松本清張の短編小説)
考古学者の視点
『玉とヒスイ 環日本海の交流をめぐって』(1992年)の著者、藤田富士夫[31]は自著で『万葉翡翠』に触れ、八木助教授の研究成果には明らかに清張の考えが投影されていることを指摘した。その上で藤田は「求めて得まし玉かも」の歌が翡翠の売買(すなわち交易)であるとする清張の意見を「従来の文学研究者には見られない意見で、私も基本的に同意する」と賛意を述べた。
考古学者の寺村光晴は『日本の翡翠 その謎を探る』(1995年)で「万葉集とヌナカハ」について、江戸時代からの論議を取り上げた。最初にこの歌を「越後国沼川郷」(現在の新潟県糸魚川市付近)に比定したのは本居宣長であったが、宣長の説は万葉研究者にも歴史学者にも長年にわたって無視され続けた。次にこの歌を考古学の観点から注目したのは、樋口清之である。樋口は歌の内容が河底の玉原石の採取や転売を伝えたものとして翡翠との関係を説いた。翡翠が実際に発見された後の1962年になって、中川幸廣は国文学の観点から「沼名河」は実在の川であるが『万葉集』の編纂者には空想上の天上の川と位置付けられたものとした。寺村も中川の説について、古代文学上の観点と万葉集の基礎的研究から導き出されたものとして同意している。
* * *
PR