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垂仁[11]~継体[26]が活動した時代の予測を修正。
ただし景行[12]と成務[13]を除く。
(158 天岩戸日食)
(238 難升米訪魏)
4前: 11.垂仁
4中: 15.応神
4後: 16.仁徳 14.仲哀/神功 ←中部日本海側が潰される【和珥武振熊】
(382 百済記に沙至比跪)
5前: 17.履中 18.反正 19.允恭
(414 広開土王碑)
5中: 20.安康 21.雄略
5後: 22.清寧 23.顕宗 24.仁賢 25.武烈
6前: 26.継体
安倍仲麿の歌から推測して、和珥氏のルーツが月読かもしれない。
とはいえ、その地域は未だわからず。
当方の持論的には、四国の西側であってくれたら都合がよい。
検索すると「大山祇=月読」説なるものがある。はてさて?
瀬戸内は潮流(月の満ち欠け)の影響が大きい。
四国側にある来島海峡は航海の難所。鳴門海峡は言わずもがな。
土佐西部の波多国造は崇神[10]朝の任命。
国造本紀で神武[1]崇神[10]朝の任命と記された地域は、ヤマト建国に深く関わっていると考えているので、四国西部が月読なら筋が通る。
もうひとつ。
四国西部が中臣氏のルーツである可能性も。
天照が閉じこもった天岩戸の前で、天兒屋(中臣氏の祖)と共に祈祷した(本伝より「相與致其祈禱焉」)太玉の子孫・忌部氏は四国東部の粟国造。
158年の日食で四国の南側は日入帯食だった。
四国西部が中臣氏のルーツであり、月読であるならば。
中臣氏が本来崇める神は月神だったものを、日神(伊勢内宮の天照)に変えるために、月読の神話を消したのでは? という仮説が導かれる。