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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

国見岳の八十梟帥=福井平野の素戔嗚

神代の誓約から国譲りまでは倭国大乱を表す。
同様に神武東征も倭国大乱を表す。という前提から、どの事件がどこに記されているか検討したい。 まず神逐の舞台は越前の小羽山ではないかと推測して、地図を見てみると。



小羽山と国見岳と丹生

国見と丹生は日本全国に散見される地名で、珍しくないらしい。
だが双方が揃っていて、山陰由来の四隅突出墳があり、地元民が素戔嗚を慕い祀った伝承をもつ古社があるとなると、話は違ってくるのではなかろうか。

越前二の宮 劔神社 ご由緒

神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを感謝し、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いだことを社記は伝えています。

越前町 織田文化歴史館 展示解説

第4章 劔神社の信仰 (1)劔神社の歴史/神体山信仰

 劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部郷の住民が座ヶ岳(標高310m)の峰に素戔嗚大神の神霊を祀ったと伝えられる。その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を素盞嗚尊の御霊代(御神体)として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられている。
 また、劔神社は、仲哀天皇第2皇子の忍熊(おしくま)皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係がある。

まとめると。
1.孝霊[7]の御代、地元民が座ヶ岳社に素戔嗚を祀った。
2.垂仁[11]の御代、地元豪族が剣を奉納して御神体にした。剱大神=素戔嗚。
3.成務[13]か仲哀[14]の御代、忍熊王により座ヶ岳社から劔神社へ遷座した。

忍熊王は、神功皇后の実子(応神[15])を立太子させる動きに反抗して争い敗れ、武内宿祢に討たれたと神功紀に記される。よって劔神社への遷座は、忍熊王が健在だった成務[13]か仲哀[14]の御世に行われたと推測する。

ちなみに忍熊王は豪族であり皇族ではないのではと疑っているが、話がブレるので今回は触れない。

地元民に慕われた伝承から推測して、素戔嗚は福井平野を治めていたようだ。
そして福井平野には、国見岳と丹生の地名が見える。

神武東征では、国見岳に布陣する八十梟帥を討つエピソード()に丹生も登場する。神武が高皇産霊を降ろす祭事を行った場所が丹生川上だ。
この祭事で神武は、天香山の土で作った器と、丹生川上の五百箇真坂樹を使う。

神代紀では、天岩戸()に隠れた天照を誘き出すときに諸神が、
本伝は、天香山の五百箇真坂樹を使う。
一書第一は、天香山の金(かね)で作った日矛を使う。
一書第三は、天香山の真坂木を使う。
そして日本書紀の段組みでは、天岩戸隠れと神逐は同じ段落にまとめられている。

国見岳に布陣する八十梟帥は、神逐の素戔嗚と同一と見做せるだろう。

さて、福井平野には九頭竜川が流れているわけだが。
よく言われることだが、首に八つの股があるなら頭は九つだ。
八岐大蛇を出雲の斐伊川に比定する最大の根拠は記紀の記述だろうが、古事記は露骨な出雲贔屓であり、日本書紀にもその傾向はある。それでも斐伊川に拘るか?

出雲は神を盗む。これは事実だ。

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