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古事記は、国見岳の八十梟帥を記さない。高倉山の物見も、女坂男坂墨坂も、丹生川上の祭事も記さない。代わりに忍坂で道臣が討った敵の名を「土雲の八十建(※)」と記す。
日本書紀は、忍坂で道臣が討った敵を「国見岳の八十梟帥の余りの党(※)」と記し、個人名を与えない。
そして忍坂制圧後、椎根津彦は忍坂から出て墨坂を攻略したのち、皇軍と連携して兄磯城を挟撃する。どうやら制圧後の忍坂には椎根津彦が居たようだ。
神武東征における椎根津彦とは、実際には久比岐海人族の青海氏だろうから、忍坂は青海氏の領域にある可能性が高い。そして久比岐には、奴奈川姫が大国主と婚姻させられて一時、能登で暮らしたという伝承がある。
糸魚川市 奴奈川姫の伝説
奴奈川姫伝説その2(『天津神社並奴奈川神社』より)
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。
5.奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。 ――後略――
忍坂は能登か、能登に近い場所であり、土雲八十建は八千矛ではなかろうか。
日本書紀は忍坂で討った敵を「国見岳の八十梟帥の余りの党」と記す。これを重視するなら、八千矛は福井平野の首長である素戔嗚の娘婿か、子か、あるいは素戔嗚本人と考えられる。
八千矛も出雲に盗まれた神か。
八千矛が越前の勢力ならば、久比岐から山陰系の土器が出土しないこととも辻褄が合う(過去記事:久比岐が出雲の勢力下にあった期間は短い)。
久比岐には八千矛を祀る神社が多くある。
別人だから、大国主ではなく敢えて八千矛を選んでいるのかもしれない。
さらにもうひとつ、忍坂の敵が八千矛ならば、浮上してくる説がある。
日本書紀の神武東征では、国見岳攻略後すぐに忍坂を攻略する。神代に置き換えれば、神逐後すぐに八千矛討伐である。神逐の直前に天岩戸隠れがあり、その原因を一書第一(※)は稚日女の死と記す。
古事記の記述は「天服織女の死→神逐→(世代交代)→奴奈川姫と八千矛の婚姻」の順だが、日本書紀の神武東征を考慮すると「奴奈川姫と八千矛の婚姻→稚日女の死→神逐」の順で、すべて八千矛存命中の出来事という解釈が成り立つ。
この結果、稚日女=奴奈川姫=倭迹迹日百襲姫、同一人物の可能性が高まる。