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神武東征に登場する4つの坂(女坂・男坂・墨坂・忍坂)は、近い位置にある。
額面通りに奈良盆地を舞台と解釈するのではなく、倭国大乱に準えて西日本の広範囲に戦場を求める場合にも、この4つの坂は同じ方面にあると考えていいだろう。
その根拠は以下の2点。
(1)高倉山の頂きから神武が女坂男坂墨坂を肉眼で見れている(※)ので、この3つの坂は近い。
(2)椎根津彦が墨坂攻略を献策するとき(※)「今者宜先遣我女軍 出自忍坂(忍坂より出る)」と言うので、墨坂と忍坂も近い。
椎根津彦は久比岐の海人族である青海氏の祖だ。
そして久比岐の奴奈川姫が倭迹迹日百襲姫のモデルであると、当ブログは推測している(過去記事:倭迹迹日百襲姫は卑弥呼ではない)。
崇神[10]紀は倭迹迹日百襲姫の婚姻譚(※)を記すが、欠史八代[2-9]紀は倭迹迹日百襲姫を孝霊[7]の子(孝元[8]世代)と記す。
その倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓を造る人足らの歌は「越」を3度も繰り返し、歌い始めは「大坂」である。
飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂 ――大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登(のぼ)れる 石群(いしむら)を たごしに越(こ)さば 越しがてむかも
また倭迹迹日百襲姫は、武埴安彦と吾田媛の反乱を警告するとき、吾田媛が倭香山の土を取って「是は倭国の物実」と言ったと告げる。
是武埴安彥 將謀反 之表者也 吾聞 武埴安彥之妻吾田媛 密來之 取倭香山土 裹領巾頭而祈曰 是倭國之物實 乃反之 物實 此云望能志呂
是は武埴安彦 謀反の将 之が表す者也 吾は聞く 武埴安彦の妻の吾田媛 密(ひそか)に来る之 倭香山の土を取る 領巾(ひれ、女性が肩から垂らす細長い布)で頭を裹(果、つつ)みて祈り曰く 是は倭国の物実 乃ち反(かえ)す之 物実 此れ云う望能志呂(ものしろ)
神武東征では、椎根津彦が弟猾と共に天香山の土を取ってくる。そして神武東征の段の最後(※)に、天香山の土を取った土地の名を埴安と記す。
潛取天香山之埴土 以造八十平瓮 躬自齋戒祭諸神 遂得安定區宇 故 号取土之處 曰埴安
天香山の埴土を潜み取る 以て八十平瓮を造る 躬(み)は自(みずか)ら斎戒し諸神を祭る 遂に安定の区宇(くう、区域)を得る 故 土を取る之処の号 曰く埴安
「坂」「香山」「埴安」が椎根津彦と倭迹迹日百襲姫のエピソードに共通する。
もし一切の意図を持たずにこれらの要素を重ねて使ったのなら、日本書紀の編者にはストーリーテラーとしての才能がないと断じても許されると思う。
おそらくこの共通項には意味がある。
椎根津彦の後裔である青海氏は久比岐の海人族で、天香山は弥彦神社の祭神だ。
よって国見岳と4つの坂は、高志方面にあると考えられる。
ちなみに武埴安彦は阿彦ではと疑っているが、話がブレるので今回は触れない。
【2021/3/26 追記】
崇神紀も倭国大乱を記しており、「武埴安彦=国見岳の八十梟帥=神逐の素戔嗚」ではないかと推測する。