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藤原不比等が春日大社を創祀。
春日大社の祭神は武甕槌・経津主・天兒屋・比売神。
比売は天兒屋の妃神と伝わる。
中臣佐久が改名して米餅搗大使主になったと、阿波国続風土記に記されている。
阿波国造(成務[13])および粟国造(応神[15])は忌部氏。
忌部氏の斎部広成が古語拾遺を著しており、中臣氏を糺す意欲があったと考えられる。
米餅搗大使主の元の名前が「中臣佐久」であるとして。
「中臣 佐久」で検索すると、佐久奈度神社がでる。天智[39]の勅願により中臣金が創建した神社で、祓戸大神(瀬織津姫・速秋津姫・気吹戸主・速佐須良姫)を祀っている。
大祓詞の作者には、天種子(天兒屋の孫)、中臣常盤、中臣金が候補に挙げられている。いずれも中臣氏である。
おそらく藤原氏と中臣氏にとっての神武[1]は、允恭[19]と雄略[21]だろう。
伊勢国風土記逸文によれば、天日別が伊勢津彦を信濃へ追いやった。伊勢津彦を物部氏とみる説がある。物部氏は住吉仲皇子を排斥した履中[17]に味方しており、允恭[19]は「我兄二天皇 愚我而輕之(我が兄の二天皇 我を愚として軽んじる)」とあることから、履中[17]・反正[18]とは不仲だった。
中臣佐久(米餅搗大使主)は和珥氏と中臣氏の接点であり、允恭[19]より少し年上の履中[17]反正[18]世代と考えられる。
仮冒かもしれないが、中臣佐久(米餅搗大使主)が天日別ではなかろうか。
そして中臣佐久(米餅搗大使主)を含む春日和珥氏の祖先たちが天兒屋ではなかろうか。