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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

天日別と天兒屋について仮説

藤原不比等が春日大社を創祀。
春日大社の祭神は武甕槌・経津主・天兒屋・比売神。
比売は天兒屋の妃神と伝わる。


春日和珥氏と皇統の関わり

中臣佐久が改名して米餅搗大使主になったと、阿波国続風土記に記されている。

wikipedia 米餅搗大使主 脚注 出典の3
「仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定 此ヨリ以前ハ中臣佐久命ニテ舂米部起テヨリ米餅舂大使主ト称フ事明ナリ」『阿波国続風土記』5巻、大麻比古神社項。

阿波国造(成務[13])および粟国造(応神[15])は忌部氏。
忌部氏の斎部広成が古語拾遺を著しており、中臣氏を糺す意欲があったと考えられる。

wikipedia 古語拾遺 内容より
記紀とは異なる記述があり、伊勢の神宮と大嘗祭の由紀殿、主基殿の造営に斎部氏が預かられていないこと(遺りたる四)だけではなく,鎮魂祭に猿女君が任命されていないこと(遺りたる九)など神代より祭祀を担ってきた姓氏が採用されず,大化の改新以来中臣氏が独占している弊害を記する。
先代旧事本紀巻第十 国造本紀
粟国造
軽島豊明朝御世 高皇産霊尊 九世孫千波足尼 定賜国造
阿波国造
志賀高穴穂朝御世 天穂日命 八世孫弥都侶岐命 孫大伴直大瀧 定賜国造

米餅搗大使主の元の名前が「中臣佐久」であるとして。
「中臣 佐久」で検索すると、佐久奈度神社がでる。天智[39]の勅願により中臣金が創建した神社で、祓戸大神(瀬織津姫・速秋津姫・気吹戸主・速佐須良姫)を祀っている。
大祓詞の作者には、天種子(天兒屋の孫)、中臣常盤、中臣金が候補に挙げられている。いずれも中臣氏である。

佐久奈度神社[frameタグ使用] 由緒
 佐久奈度神社は天智天皇御宇8年 勅願により中臣朝臣金連が当地において、祓 を創し祓戸大神四柱を奉祀した。

おそらく藤原氏と中臣氏にとっての神武[1]は、允恭[19]と雄略[21]だろう。
伊勢国風土記逸文によれば、天日別が伊勢津彦を信濃へ追いやった。伊勢津彦を物部氏とみる説がある。物部氏は住吉仲皇子を排斥した履中[17]に味方しており、允恭[19]は「我兄二天皇 愚我而輕之(我が兄の二天皇 我を愚として軽んじる)」とあることから、履中[17]・反正[18]とは不仲だった。

wikipedia 伊勢津彦 考証
また、宝賀寿男は、伊勢津彦に関する記述[注釈 1]から、建御名方神とは本来は別神であり、神武天皇の東征によって故国を追われたことから混同されたものと独自の説を示した。同説では、その他別名(櫛玉命)や世代関係(神武一世代前)など諸要素からも伊勢津彦神こそ邇芸速日命と同神とされ、東国へ逃亡したのは実際は伊勢津彦神の子に当たる神狭命とした[2][3]。

中臣佐久(米餅搗大使主)は和珥氏と中臣氏の接点であり、允恭[19]より少し年上の履中[17]反正[18]世代と考えられる。

仮冒かもしれないが、中臣佐久(米餅搗大使主)が天日別ではなかろうか。
そして中臣佐久(米餅搗大使主)を含む春日和珥氏の祖先たちが天兒屋ではなかろうか。

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