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夢のお告げにより大物主の祭祀を大田田根子に、倭大国魂の祭祀を市磯長尾市に任せたと、崇神紀は記す。
大物主(三輪山)を祀るのは唐古鍵。
倭大国魂を祀るのは纏向。
第4代懿徳天皇(大日本彦耜友天皇)=天稚彦
天稚彦は、日本書紀神代下第九段の本伝によれば、顕国玉の娘の下照姫を娶り、葦原中国の統治者になろうとした。
天稚彦は、唐古鍵と纏向を統合しようとしたのではないか。
これに高皇産霊(信越勢)が待ったをかけた。
祭政一致の当時、スピリチュアルの権威としての判断だろう。
唐古鍵の祭祀は大物主(丹波)か事代主を父に持つ大田田根子に、纏向の祭祀は椎根津彦(飯手足尼)の子孫である市磯長尾市に託される。
このあとの纏向の大王が第5代孝昭天皇であり、第11代垂仁天皇と同一人物である。
高皇産霊(信越勢)の影響下で即位したこの大王は、第2代綏靖天皇(神渟名川耳天皇・信越勢)の子孫だろう。
しかし懿徳天皇(天稚彦)の試みは政治的に有意義だった。
祭祀は分離存続させつつ、政治のみ統合する方向で、丹波大己貴(唐古鍵)が国譲りを迫られる。
唐古鍵(丹波)は、政治を統合することには同意したが、傘下に降るつもりはなく、纏向の有力者である狭穂彦を討つ。
狭穂彦の甥の誉津別が第6代孝安天皇(日本足彦国押人天皇)であり、気比大神であり、名前を交換した第15代応神天皇(誉田天皇)であり、山陰へ行った纏向系の瓊瓊杵である。
唐古鍵系の瓊瓊杵は第12代景行天皇(大足彦忍代別天皇)である。
ただし第7代孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇)とは別人と思われる。
以上を踏まえて欠史八代の和風諡号をみると、唐古鍵と纏向が統合されていると思われる世代の天皇に「日本」が含まれている。
さらに清寧[22]は、母が葛城韓媛だ。
葛城の地に宮を構えたのは綏靖[2]であり、葛城氏はその子孫と思われるから纏向系だろう。
国押もついているから、母系祖先は尾張氏か。
清寧[22]の父は雄略[21]であり、その父である允恭[19]は南九州の日向国から東征してきたと思われる。
日向勢は、丹波勢である景行[12](唐古鍵系の瓊瓊杵)の子孫である。
元明[43]以降については未来の課題とする。
はじめは渟名城入姫に祀らせたが障りがあったため、市磯長尾市に祭祀を任じたと、垂仁紀は記す。
渟名城入姫の母は尾張大海媛。
垂仁[11]=孝昭[5] なので、狭穂姫=世襲足媛、狭穂彦=瀛津世襲。
狭穂彦は尾張氏である。
また、狭穂彦は越中の阿彦である。
尾張氏の娘・渟名城入姫が倭大国魂を祀れなかったとは、尾張氏が巻向の大王になれなかったことの比喩だろう。