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懿徳[4](天稚彦)は唐古鍵と纏向の統合を試みたが、事故か暗殺か、返し矢により絶命したために頓挫する。矢を返したのは高皇産霊(信越勢)である。
信越勢の働きで、統合の流れは一時停滞した。
だが、信越勢にも統合を推進する一派がいたのだろう。それが古事記の建御名方だ。
古事記の建御名方の母は奴奈川姫(信越勢)であり、父は丹波大己貴である。
懿徳[4]が試みた唐古鍵と纏向の統合が順調に進んでいれば、建御名方は次の大王位にもっとも近かったのではないか。
だからこそ古事記は、手ひどい敗戦を喫したように描いて、建御名方の権威を貶めたのだろう。
いっぽう日本書紀が建御名方の下野を記さないのは、この事件が信越勢の内紛にすぎないからだろう。
統合の流れを阻止するため、建御名方は同族により纏向から排除された。
そして建御名方はルーツである信越へ行く。
だが諏訪の伝承では、建御名方が敗戦した事実はないという。
同一人物ではないのだ。
古事記の建御名方は、諏訪入りした建御名方の祖先だろう。
倭氏系図を参照する。
都弥自宿祢は応神朝に明石国造に任じられる。
応神[15]は継体[26](6世紀前期)の5世代前だから、3世代100年計算で、4世紀中期の人物と考えられる。
また、3世紀からはじまる纏向の最初期の大王に綏靖[2]を想定すると、懿徳[4]は3世紀後期の人物と考えられる。
したがって懿徳[4]は、4世紀中期の都弥自宿祢から2世代前になる。
倭氏系図で、都弥自宿祢の2世代前は市磯長尾市と御戈だ。
御戈は久比岐国造に任じられたことになっているので、信越へ行ったはずだ。
よって、久比岐国造青海氏の祖である御戈が、古事記の建御名方である。
古事記は誇張して「迫到科野国之州羽海」と記すが、おそらく御戈は久比岐に留まった。
久比岐の勢力圏は、長野盆地にある埴科古墳群のあたりまでか。
その何世代かのち、御戈の子孫が諏訪へ行き、東海勢のモリヤを帰順させる。
これが諏訪大神の建御名方だろう。