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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

天穂日および五男神について自説変更

非常にあやふやな記憶で、
「古代の航路を表す五男神のうち天津彦根と活津彦根の交わる場所が彦根説」を教えてくれた彦根市のタクシー運転手に、北陸出身であると話したら、天穂日だと言われたような言われなかったような気がしていた。それで、この不正確な記憶を頼りに、五男神があらわす航路を推定したけれど、間違ってた。


孝元[8]は山陰勢。
武力行使により丹波勢(孝霊[7])を追い落として、ヤマトの大王になる。
この出来事が、八岐大蛇退治の神話になる。
八岐大蛇退治の素戔嗚=武内宿祢。

開化[9]は物部氏。
山陰勢との話し合いにより物部大前(開化[9])がヤマトの大王になる。
この出来事が、国譲り神話の一書第二になる。

一書第二で国を譲った大己貴は山陰勢。
孝元[8]自身か、弟や子などの近親者。
譲った国はヤマトであり、物語の舞台は近畿地方。

山陰勢のヤマトの大王を、山陰で祀っているのが出雲大社(杵築大社)。
高皇産霊が「当主汝祭祀者 天穂日命」と言っている。
ならば、山陰が天穂日と考えるのが妥当。

これまでは「山陰の土地を譲り、新たな統治者として天穂日を受け入れた」と考えてきたが、間違いだ。
正しくは「ヤマト国の大王位を譲り、ルーツである天穂日の山陰へ帰った」のだ。

また、国譲りの本伝にも天穂日は登場する。
高皇産霊が最初に葦原中国へ派遣した。次に派遣したのが天稚彦。

天稚彦は味耜高彦根の友であり、和風諡号に「耜友」をもつ懿徳[4]のこと。
なので、国譲り本伝の天穂日は安寧[3]。
安寧[3]は和風諡号「磯城津彦玉手看」から、磯城氏と推測。
磯城氏のルーツは山陰と思われる。

箸墓古墳の被葬者とされる倭迹々日百襲姫の逸話のうち、大物主と婚姻して亡くなった話のモデルは奴奈川姫である。よって箸墓古墳の被葬者は、綏靖[2]周辺の人物と推測される。
だが、箸墓古墳を造成したのは安寧[3]ら山陰勢ではないか?

山陰は西谷墳墓群など、四隅突出墳丘墓を大型化させている。
3世紀末~4世紀初築造と目される前方後円墳「浅井11号墳」も、2015年に発見された。

それから、

天穂日が山陰勢ならば、誓約の五男神も考え直さねばならない。
三女神が北九州対馬間の航路なので、五男神も航路を想定する。
天穂日は山陰の日本海。

同じく五男神の一柱、天忍穂耳の子(孫)の火明は尾張連が嫡流。
尾張連は瀛津世襲であり、ルーツは越中。
さらに、瓊瓊杵(景行[12])は丹波勢。丹波の海部氏は火明の子孫を名乗る。
よって天忍穂耳は丹波・越前・加賀・越中の日本海。

天津彦根、熊野櫲樟日、熯速日は変更なし。
悩むところは、活津彦根が瀬戸内をカバーするか? はたまた瀬戸内は月読の領分か?

ヤマトの大王位を譲る国譲りは二回。
一回目、本伝は丹波勢(孝霊[7])から山陰勢(孝元[8])へ。
二回目、一書第二は山陰勢(孝元[8])から物部大前(開化[9])へ。

関東の国造の祖は、天穂日と天津彦根が多い。
天津彦根は東海の太平洋。東海の国造は物部氏が多い。
物部氏が石上神宮で韴霊剱を祀る。

経津主が開化[9]の物部氏ならば、武甕槌は孝元[8]の山陰勢か?

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