忍者ブログ
素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

建御雷∩天香山、経津主∩宇摩志麻遅

日本書紀の国譲り神話に登場する高皇産霊の行動は大和の動向を指す。経津主は大和の軍の動向を指し、建御雷は九州勢の軍の動向を指す。

石見国一宮 物部神社 御由緒
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。
記紀では、大国主は戦わず国を譲ったとしているが、戦ったらしい。
現代でも堂々と主張してしまうくらい物部氏にとって重大な勝利なのだろう。

この物部氏の出征が、国譲り神話の経津主に相当すると考える。
久比岐に伝承によれば妻問い後の八千矛は、奴奈川姫を連れて能登に滞在した。

糸魚川市 奴奈川姫の伝説
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。
丸腰で長期滞在はしないだろうから、八千矛は兵力を能登出征組と出雲残留組に分けたはずだ。大和は、出雲の戦力が分割されているときをチャンスと見て仕掛けた。

出雲が戦火に晒されれば、八千矛には帰って戦う以外の選択肢はない。
能登の兵力をさらに分割して、手勢を引き連れ出雲へ帰る。そして手薄になった高志へ、建御雷こと天香山が入り、久比岐から出雲軍を完全に排除した。

このとき排除された抵抗勢力のなかに建御名方がいるかどうか。
古事記では抵抗勢力の筆頭のような役回りだが。

久比岐が出雲の勢力下にあった期間は短い
つまり建御名方が、奴奈川姫と大国主のあいだの子である可能性は低い。
そして古事記(712)日本書紀(720)より遅く成立した出雲国風土記(733?)は、大国主の子に建御名方を含めない。

久比岐の伝承のひとつは、奴奈川姫の前夫が大国主と戦い敗れたと伝える。
10.市野々(いちのの)の地名
 西海村字市野々の地名については、次のような話がある。
 奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。後祀られたのが今の「大将軍社」である。
 豪族の駒は、尚奥へ逃げ込み、遂に石になってしまった。今根知村(現在糸魚川市根知地区)字梶山の向いの黒い絶壁に、白い馬の形となっている。その山も「駒ヶ嶽」といわれるようになった。
これを踏まえると、建御名方の父は松本の豪族である可能性がある。
大国主に父を殺されたとき、まだ幼かった建御名方は父方の縁を頼って科野へ逃れたのではないだろうか?

建御名方を大国主の子に設定して得するのは出雲だけなので、古事記の国譲りは出雲寄りの視点で書かれたと推測する。妻問いの段と国譲りの段のあいだに少彦名と国造りしたエピソードを挟んで、久比岐を含めた高志国を大国主が開拓したように装うなど、悪質な出雲贔屓である。

記紀編纂時に、高志はこの記述に強く反発したのではないだろうか。
加えて、出雲に勝利した戦功を記述されなかった物部氏も反発したかもしれない。
日本書紀は高志と物部氏の反発を反映させたから、古事記と大きく異なる記述になったのだろう。
* * *
PR