[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。記紀では、大国主は戦わず国を譲ったとしているが、戦ったらしい。
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。丸腰で長期滞在はしないだろうから、八千矛は兵力を能登出征組と出雲残留組に分けたはずだ。大和は、出雲の戦力が分割されているときをチャンスと見て仕掛けた。
10.市野々(いちのの)の地名これを踏まえると、建御名方の父は松本の豪族である可能性がある。
西海村字市野々の地名については、次のような話がある。
奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。後祀られたのが今の「大将軍社」である。
豪族の駒は、尚奥へ逃げ込み、遂に石になってしまった。今根知村(現在糸魚川市根知地区)字梶山の向いの黒い絶壁に、白い馬の形となっている。その山も「駒ヶ嶽」といわれるようになった。