景行[12]と仲哀[14]は九州へ赴き、熊襲を討伐している。
うろ覚えなのだが、この頃の力関係は筑紫(北九州勢)のほうが上だった説を、何時だったか誰かに解説してもらった気がする。
景行は自身が筑紫入りするまえに使者を送って様子をみる。神夏磯媛は賢木に剱と鏡と瓊を掛けて使者を迎える。
仲哀が筑紫に幸したときは、熊鰐が船の舳にたてた賢木に鏡と剱と瓊を掛けて出迎える。
この説では、景行と仲哀が筑紫に恭順したことを、剱・鏡・瓊の神器を暗喩に使って表しているという。皇統の正当性を謳うための歴史書に、天皇が人間に頭を下げたとは書けないから、神器を崇めたことにした。
さらに伊睹(イト)国の五十迹手は賢木に掛けた瓊と鏡と剱を仲哀に献じる。
これは「下賜」だという。神器を授けるので日々これを崇め奉りなさいと言って与えたものを、たった一文字「授」を「献」に差し換えて、五十迹手と仲哀の立場を逆転させた。
熊鰐が仲哀に魚塩の地を献じているのも、実態は「下賜」だという。
都近くに土地を与えるから其処に邸を構えて、以後朝貢するときはその邸に滞在しなさいと、遠来の新参者を思いやった。これも一文字「授」を「献」に差し換えて、立場を逆転させた。
仲哀は梶取の伊賀彦に、筑紫の神である大倉主と菟夫羅媛を祀らせる。
大倉主と菟夫羅媛の正体は、神託により筑紫を統治する首長と巫女であり、仲哀はここで筑紫勢に恭順を示したという。神が船の進行を妨げたという理由は、其処にいる貴人に挨拶しなければならなかったことを表している。
景行に話を戻して神夏磯媛。
多くの徒衆を従えた一国の魁帥なので、景行のころの筑紫女王と考えられる。謁見した景行の使者に、戦意を向けなければ我々も攻撃しないと約束したうえで、皇命に従わない残賊の討伐を景行の使者に願う。
ふつうに読めば「皇命」は景行の命令だが、北九州勢の場合、中華の皇帝を指している可能性も考えられる。中華より国王と認められた我(神夏磯媛)に従わない賊を討てと、景行に命じた。
因みに、それなら中華が王と認める筑紫が邪馬台国かと考えがちだが。
当時「漢委奴国王」の称号が権威を失っていた確証はないので、断定には至らないだろう。曹丕が献帝から禅譲を受け、後漢を継承した建前になっている魏は、後漢が下賜した印璽の権威を安易に否定しないはずだ。
話を戻して。
景行と仲哀が筑紫に朝貢したのに、成務が朝貢しなかったのは母が八坂入姫だからと推測する。
八坂入姫の父は八坂入彦、その母は尾張大海媛であり、高倉下の系譜だ。穂高見・椎根津彦・高倉下は、志賀島阿曇氏と同じく綿津見を始祖にする。
崇神が実在しない説に則れば、母方の祖父は綏靖(神渟名川耳)になり、椎根津彦の系譜にもなる。成務は両親ともに筑紫と旧縁の血筋だから、朝貢する必要がなかったのだろう。
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