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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

欠史八代の時系列を改訂 /20240822

時系列改訂の前に追加で1つ改訂。

以前は磯城氏(一書第二の大己貴)を山陰勢と見なしていたが、ここに正式に改め、対馬海峡沿岸から来た人々とする。磯城氏は2世紀に奈良盆地に入り纏向を興す。纏向は三貴子の素戔嗚に例えられる。

先んじて紀元前1世紀ごろに対馬海峡沿岸から来て淡路島と摂津に入った勢力が、月読に例えられる人々である。彼らは紀伊国・阿波国へ進出する。

孝元[8](磯城)は「因幡の白兎」における大国主である。
そして大国主を殺そうとする卑劣な兄たちは《月読に例えられる人々》である。

神々の親子兄弟設定は、その神々が象徴する勢力同士の関係が深いことを表す。
先に近畿へ進出していた同郷の人々は、磯城氏からみて《兄》となる。

では本題の時系列。

宮の造営地から、綏靖[2]孝昭[5]孝安[6]は葛城勢、初代纏向大王[1]懿徳[4]孝元[8]は磯城勢。
纏向活用期間に綏靖[2]安寧[3]懿徳[4]が充たると仮定する。

綏靖[2]孝昭[5]孝安[6]を連続させると、孝昭と孝安の境界が4世紀前期になる。
瀛津世襲=狭穂彦、世襲足媛=狭穂姫、孝安=誉津別とする自説に合致。

神武[1]は綏靖[2]の前に接すると仮定すると、神武の始めは2世紀中期になる。
2世紀中期の神武[1]が素戔嗚なら6世孫の大国主は4世紀中期になる。
懿徳[4]の後に孝元[8]が接すると仮定すると、孝元の後半が4世紀中期に合致。

孝元[8]は一書第二の大己貴であると定義した。
この国譲りによって磯城氏ではない開化[9](穂積氏)が後に接する。

安寧[3]の片塩浮孔宮は葛城と唐古鍵の中間付近にある。
安寧は本伝の天穂日であり、本伝の大己貴は唐古鍵(穂積氏)であると定義した。
天穂日を派遣した高皇産霊の5世孫が葛城国造剣根だ。
よって安寧(本伝の天穂日)は、唐古鍵に阿った葛城氏と考える。

孝霊[7]は和風諡号(天足彦国押人)に国押を含むので、葛城氏と思われる。
孝霊[7]の黒田庵戸宮は唐古鍵に近く、唐古鍵に関係の深い葛城氏だろう。

黒田庵戸宮の真東に西殿塚古墳(3世紀後期の大型前方後円墳)がある。
安寧[3]の後に孝霊[7]が接すると仮定すると、孝霊[7]の前半が3世紀後期に合致。

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