神武から数世代を、宮を多く橿原周辺に造営したので橿原勢と呼び、のちに物部氏になる勢力を、祖先神をとって饒速日勢と呼ぶことにする。
この二つが融合した勢力を大和と呼ぶ。
記紀神話は神武[1]一代で東征と近畿平定を成したとするが、戦後処理に掛かる手間を考えると現実的には難しいだろう。よって神武東征は史実を基にしたフィクションであり、実際には数世代に渡る業績と考える。
橿原勢と饒速日勢が融合した時期は、饒速日勢を出自にする欝色謎命を皇后にした孝元[8]または孝霊[7]の頃と考える。幅を持たせたのは、孝霊が高齢の場合に子を政略結婚させた可能性を考慮した。
孝霊[7]は吉備津彦の父とされ、遠征した説話が鳥取県の樂樂福神社に伝わる。
この頃に、出雲を警戒する九州勢に協力して山陽と丹波へ侵攻したと思われる。
孝霊[7]または孝安[6]の頃に、九州勢から使者が来たのだろう。
九州勢が、まだ覇者の定まらない近畿地方で橿原勢に接触したのは、おそらく尾張氏の縁による。尾張氏は、記紀神話では天火明の子孫だが、海人族を自称した。綿津見を始祖に据えた系図を持ち、福岡市にある志賀海神社の阿曇氏と同祖だ。その尾張氏を出自にする世襲足媛は、孝昭[5]の皇后だ。
尾張氏の仲介で九州勢は橿原勢に接触して、出雲の危険性を教えたのだろう。
地図をみれば、越前の敦賀は琵琶湖の北岸に近接する。版図拡大に意欲的な勢力が若狭・越前を押さえたら、近畿も安全圏ではなくなる。
橿原勢を説得した後、九州勢は饒速日勢にも接触して、橿原勢との和睦を説く。
饒速日勢が説得に応じたのは、太陽神を祀る者同士の誼みだろうか。
九州勢から手土産もあったかもしれない。
八咫鏡、八尺瓊勾玉、十種神宝、韴霊剣、日像鏡、日矛鏡などの宝物のうち幾つかは、このときに九州勢が贈った物か。当時の力関係は九州勢>橿原勢及び饒速日勢だったと思われるので、下賜の形式をとっただろう。
宝物の質の良さと種類の豊富さは国力を反映する。
これらも、九州勢を敵に回すのは良くないと饒速日勢が判断する根拠になりえる。
このように、九州から来た使者の仲介で近畿がまとまり大和が成立したと仮定すると、橿原勢も饒速日勢も、九州がルーツである必然性が無くなる。
双方ともが古くから近畿に根差す氏族だとしても、海人族の尾張氏との間に縁をつくった孝昭[5]さえ実在すれば、崇神[10]につなげることが可能だ。
では双方を近畿の在来勢力と仮定して、欠史八代を見てみる。
日本書紀は綏靖[2]から孝霊[7]までの皇后に一名を挙げたのち、二名を「一云」または「一書」として挙げる。そこには一人以上の磯城を出自にする女性がいる。
通説では、磯城縣主が有力氏族だからその娘を天皇が娶ったという。
なのだが、異説を唱える余地はまだ残っている。例えば。
・綏靖[2] 川派媛(磯城縣主の娘)
・安寧[3] 川津媛(磯城縣主葉江の娘)
・懿徳[4] 泉媛(磯城縣主葉江の弟猪手の娘) 飯日媛(磯城縣主太眞稚彥の娘)
・孝昭[5] 渟名城津媛(磯城縣主葉江の娘)
・孝安[6] 長媛(磯城縣主葉江の娘)
・孝霊[7] 細媛(磯城縣主大目の娘)※皇后
磯城は女系で、首長の座を母娘継承する彼女達が宗家であり、分家として橿原周辺に宮を建てて住んだ男兄弟を、記紀編纂時に天皇とした。橿原が分家で過密にならないように、彼らは新天地を求めて他の土地へ侵攻した。
ただし孝霊[7]だけは細媛の夫だ。次の孝元[8]がターニングポイントで、父系に切り替わるからだろう。
反対に饒速日勢は父系だ。長髄彦の妹の三炊屋媛は饒速日の妻とされるが、饒速日は太陽神であり、人間ではない。三炊屋媛は巫女であり、のちの斎宮の原型になる習俗だったと想像する。
そして孝霊[7]の頃に磯城勢(橿原勢)と饒速日勢が、九州勢の仲介で和睦する。
宗家の座を争って揉めないように、互いの継承権のない子を娶せた。女系の磯城勢からは息子の孝元[8]を、男系の饒速日勢からは娘の欝色謎を出して、この家系を大和の王家にすると決めた。
という説も、否定できる根拠はないように思う。
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