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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

物部大前が長髄彦義兄の饒速日

神武四兄弟=允恭四兄弟。
神武東征は、逸話ごとに登場人物の「中の人」が変わる。


一連の事件における物部氏の動向を推測。
(1) 物部大前は履中[19]に味方して、海神族の筑紫勢と対立する。
(2) 住吉仲皇子を排除したのち日向勢に攻め込まれ、伊勢を奪われる。
(3) 安康[20]と対立する木梨軽皇子が物部大前を頼る。しかし庇いきれず、木梨軽皇子は失脚する。日本書紀本伝では自死、古事記と日本書紀一云では伊予に流刑。

(3)の事件が、長髄彦との再戦。
饒速日=物部大前
長髄彦=木梨軽皇子
神武[1]=安康[20]

遠州灘沿岸の国造は物部氏が多い。
紀伊半島の熊野国造も物部氏。熊野と遠州灘の間に位置する伊勢の伊勢津彦は、一説では伊勢津彦は饒速日という。

おそらく物部大前は伊勢津彦ではない。
しかし伊勢津彦も物部氏だろう。

遠州灘沿岸から天竜川を遡ると諏訪湖であり、伊勢津彦は信濃へ逃れた。
神無月神有月にまつわる俗説では、諏訪大神は巨大な龍だと云う。
竜神祝詞には”龍王神が十種の御宝の変じた”とあり、十種の御宝と十種神宝(饒速日が天神御祖から授かる)の同一性が疑われる。
諏訪大神の建御名方の母親は久比岐の奴奈川姫。

物部氏には信越を無下にしない姿勢が見受けられる。おそらく、物部大前が抵抗したのは九州から来る筑紫勢と日向勢であり、海神族ではないだろう。
安康[20]は信越勢と推測する。

日本書紀の一云と古事記は、失脚した木梨軽皇子は伊予に流されたと記す。
木梨軽皇子は西四国勢と推測する。

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