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日本書紀の神武東征(※)で、神武は兄磯城に頭八咫烏を遣わすが、兄磯城は「烏鳥若此惡鳴耶(烏鳥は此の若く悪しく鳴く耶)」と言い、弓で射ようとする。
このエピソードは国譲り(※)の天稚彦に似ている。
国譲りで、高皇産霊は天稚彦に無名雉を遣わすが、天稚彦は天探女に唆され(一書第一(※)では「鳴聲惡鳥在此樹上(鳴声の悪い鳥が此の樹上に在る)」と教える)、天羽羽矢で雉を射る。
神武の使者の頭八咫烏は矢を避けるが、高皇産霊の使者の無名雉は矢に貫かれる。
だが相違点はあるものの、兄磯城=天稚彦と考えていいと思う。
とすると弟磯城は誰に相当するのか?
天稚彦の周辺で目立つ人物といえば味耜高彦根だが、行動が弟磯城と異なる。
味耜高彦根が天稚彦の遺族に暴力を振るったことを拡大解釈して、弟磯城が神武に与したことに準えるか?
すこし視点を変えてみる。
現代の地図では、磯城郡は橿原市の北に隣接している。加えて、安寧[3]の和風諡号は磯城津彦玉手看と云い、磯城を名前に含む。よって安寧[3]以降の天皇は磯城氏の男子ではないかと、当ブログは推測する(過去記事:欠史八代は五代孝昭以降うっすら実在感がある)。
磯城氏は、皇統のルーツに組み込まれている可能性がある。
一般的には、弟磯城は大和の磯城氏と解釈される。その弟磯城と同一視するからには高い神格を与えただろう。そして味耜高彦根は、私情にまかせて暴れたエピソードしか持たないのに、称号は「神」だ。
よって弟磯城=味耜高彦根と考えられなくもない。
だが、これだけでは説得力に乏しい。
先代旧事本紀は、この問題もフォローしようとしたようだ。
天孫本紀の系譜(※)によれば宇摩志麻遅の子の彦湯支(ひこゆき)は、出雲色多利姫との間に一男を儲けた。名前から推測して子は出雲醜大臣だろう。
彦湯支の兄が味饒田(うましにぎた)だ。
Wikipediaの「アヂスキタカヒコネ」の項によると、味耜高彦根は農耕神であり、「アヂ」は「可美(うまし)」の同義語であるらしい。
神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」は磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。
兄と弟が逆になっているが。
「兄磯城=天稚彦=彦湯支(弟)」「弟磯城=味耜高彦根=味饒田(兄)」のつもりではなかろうか。
私感だが、先代旧事本紀は先輩(日本書紀)の尻拭いをしているようで、なんとも憎めないヤツである。