忍者ブログ
素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

大倭神社註進状:大地官と地主神を同一視する暴論

『大倭神社註進状』を読むと気になる点が二つある。
ひとつは、日本書紀には存在しない孝昭[5]の夢のエピソード。
ひとつは、大地官を地主神に読み替える強引さ。

まず、孝昭[5]の夢について記す段落を、ここに書きだす。
日本書紀家牒曰 腋上池心宮御宇天皇孝昭元年秋七月甲寅朔 遷都於倭國葛城 丁卯 天皇夢有一貴人 對立殿戸 自称大己貴命曰 我和魂 自神代鎮御諸山 而 助神器之昌運也 荒魂服王身 在大殿内 而 爲宝基之衛護 即得神教 而 天照大神 倭大國魂神 並祭於天皇大殿之内
日本書紀家牒に曰く 腋上池心宮御宇天皇[孝昭]元年秋七月甲寅朔 倭國葛城に遷都する 丁卯 天皇の夢に一貴人有り 殿戸に立ち対する 自ら大己貴命と称し曰く 我の和魂 神代より御諸山に鎮まる 而 神器の昌運を助ける 荒魂は王の身に服し 大殿内に在り 而 宝基の衛護と為る 即ち神教を得る 而 天照大神 倭大國魂神 並べ天皇の大殿の内に祭る

孝昭[5]は欠史八代であり、夢のエピソードなど日本書紀には存在しない。
ただし、池心宮については記述がある。
元年春正月丙戌朔甲午 皇太子即天皇位 夏四月乙卯朔己未 尊皇后曰皇太后 秋七月 遷都於掖上 是謂池心宮 是年也太歲丙寅
「日本書紀家牒曰」は「腋上池心宮御宇天皇孝昭元年秋七月甲寅朔 遷都於倭國葛城」のみに限定して係ると思われる。
肝心の夢のエピソードは出典不明であり、信ぴょう性を疑ってしかるべきだろう。


なお、「日本書紀家牒」の言い回しが気になったら、下のリンク先がおすすめだ。
文書の正誤を問わない姿勢で書かれたレポートなので、当ブログと意見の合わない方も安心して読めると思う。

北海道大学学術成果コレクション 「家牒」についての一考察


さて、地主神が登場する段落を読んでいこう。該当する段落は三つ。
冒頭にある筆者の所感、垂仁[11]紀からの引用、八千矛の項にある御年の解説。

まずは、冒頭にある筆者の所感を、ここに書きだす。
謹考舊記曰 大倭神社在大和國山邊郡大倭邑 盖 出雲杵築大社之別宮也 傳聞 倭大國魂神者大己貴命之荒魂与和魂 戮力一心 經營天下之地 建得大造之績 在大倭豊秋津國 守國家 因以 号曰倭大國魂神 亦曰大地主神 以八尺瓊異作鏡爲神躰 奉斎焉
謹み旧記を考え曰く 大倭神社は大和國山邊郡大倭邑に在り 蓋し 出雲杵築大社の別宮なり 伝え聞く 倭大國魂神は大己貴命の荒魂と和魂 戮力一心 天下の地を経営する 大造の績を建て得る 大倭豊秋津國に在り 國家を守る 因て以て 号し倭大國魂神と曰く 亦た大地主神と曰く 八尺瓊を以て[異作鏡]神躰と為し 斎き奉る

旧記について考え物申すのは誰かといえば、この文書の筆者だ。
盖(蓋、けだし)は、辞書に「物事を確信をもって推定する意を表す」とある。
大和神社が出雲杵築大社の別宮だと、筆者が考えた。

傳聞(伝え聞く)、つまり出所不明で裏付けのない情報だ。


続いて、大部分が垂仁[11]紀から引用された段落を、ここに書きだす。
纏向珠城宮御宇天皇垂仁二十七年九月戌申朔甲子 以皇女倭姫命爲御杖代貢天照大神 倭姫命 隨神誨立宮於伊勢國渡遇 五十鈴川上奉遷焉 是時 倭大國魂神 著大水口宿祢而誨之曰 太初之時期曰 天照大神悉治高天原 皇御孫尊專治葦原中國之八十魂神 我親治大地官者 言已訖焉云々 大地主神之号起于是時矣
纏向珠城宮御宇天皇[垂仁]二十七年九月戌申朔甲子 皇女倭姫命を以て御杖代と為し天照大神に貢ぐ 倭姫命 神の誨えの隨に伊勢國渡遇の宮に立ち 五十鈴川上に遷し奉る 是時 倭大國魂神 大水口宿祢に著れて誨え之を曰く 太初の時期に曰く 天照大神は悉く高天原を治める 皇御孫尊は專ら葦原中國の八十魂神を治める 我は親(みずか)ら大地官の者を治める 言は已訖(おわる)[云々] 大地主神の号は是時に起こる

日付は異なるが(日本書紀は丁巳年冬十月甲子)、大部分は垂仁紀の要約と云える。
しかし最後の一文「大地主神之号起于是時矣」が問題だ。

垂仁[11]紀に地主神という単語は登場しない。あるのは大地官のみ。
大地官を地主神と同一視する根拠は、この文書の冒頭に記された筆者の所感と、それに付随する出所不明の伝聞情報しかない。信ぴょう性を問われてしかるべきだ。


続いて、御歳について解説する段落を、ここに書きだす。
御歳神者守護禾穀神也 是 以八握嚴稲爲神躰 古語拾遺曰 大地主神營田之日 御年神 獻白猪白馬白雞奉謝 無蝗虫之災年 穀豊稔 故至今 天子 以白猪白馬白雞毎年 祭御歳神也
御歳神は禾穀を守護する神なり 是 八握嚴稲を以て神躰と為す 古語拾遺に曰く 大地主神が田を営む之日 御年神に 白猪白馬白鶏を献じ奉謝する 蝗虫の災の無い年 穀は豊かに稔る 故に今に至る 天子は 白猪白馬白鶏を以て毎年 御歳神を祭るなり

古語拾遺に収録されている『除蝗祭』のくだりを参照した文で、これは問題ない。
では、古語拾遺の該当箇所を読む。

国立国会図書館デジタルコレクション 古語拾遺 :コマ番42/52
昔 在神代 大地主神 営田之日 以牛完食田人 于時 御歳神之子 至於其田 唾饗而還 以状告父 御歳神發怒 以蝗放其田 苗葉忽枯損似篠竹 於是 大地主神 令片巫志止止鳥 肱巫 今俗竈輪及米占也 占求其由 御歳神爲祟 宜獻白豬白馬白鶏 以解其怒 依教奉謝 御歳神答曰 實吾意也 宜以麻柄作桛桛之 乃以其葉掃之 以天押草押之 以鳥扇扇之 若如此不出去者 宜以牛完置溝口 作男莖形以加之 是所以厭其心也 以薏子蜀椒呉桃葉及鹽 班置其畔 古語 以薏曰都須 仍従其教 苗葉復茂 年穀豐稔 是今神祇官 以白豬白馬白鶏 祭御歳神之縁也
昔 神代に在り 大地主神 田を営む之日 牛の完を以て田人に食わす 于時 御歳神の子 其の田に至る 饗に唾きて還る 以て状を父に告げる 御歳神は怒り発し 以て蝗を其の田に放つ 苗葉は忽ち枯れ損い篠竹に似る 於是 大地主神 片巫(かたこうなぎ、鵐(しとど、ホオジロ類)の異名)[志止止鳥] 肱巫(ひじかんなぎ、男の巫(みこ))に[今の俗で竈輪及び米占なり] 占わ令(し)め其の由しを求める 御歳神の祟り為す 宜しく白豬白馬白鶏を献じ 以て其の怒りを解き 教えに依り奉謝する 御歳神は答え曰く 実に吾が意なり 宜しく麻柄を以て桛(かせ、紡いだ糸を巻き取るH/X形の道具)を作り桛ぐ之 乃ち其の葉を以て掃う之 天押草を以て押す之 鳥扇を以て扇ぐ之 若し此の如く出で去らずは 宜しく牛完を以て溝口に置く 男莖形を作り以て加える之 [是は其の心を厭う所以なり] 薏子(つす玉)蜀椒(なるはじかみ、山椒)呉桃葉(胡桃の葉)及び塩を以て 其の畔りに班(わか)ち置く[古語 意を以て曰く都須] 仍って其の教えに従う 苗葉は復た茂る 年穀は豊かに稔る 是は今の神祇官 白豬白馬白鶏を以て 御歳神を祭る之の縁なり

別の書物は「牛完」を「牛の宍(しし、肉)」と訳す。

国立国会図書館デジタルコレクション 古語拾遺 : 原文及ローマ字文対照
:コマ番21-22/29

御歳の祭祀の起源譚に地主神が深く関与している。
この故事を引用して御歳を説明することに問題はないだろう。

だが、この『除蝗祭』の故事の紙面にある書き込みに注目されたい。
向かって右のページ4行目「地主神営田之日」の左から始まる茶色い文字の行だ。

分かる範囲で書き写した。
大己貴ニハアラジト見ユ其田ノ主神欤シカト不㝎
(この地主神は)大己貴ではないと見える。其の田の主神かな?しかと不定

続いて、菅雄なる人物の見解が記される。
_は、似た活字を見つけられなかったので空けておいた。
菅雄云地主神ニハアラジ大国主ナルベシ其ユエハ大和囗高市_御年神社ノ祝ハ姓氏录大和囗未㝎雑姓ノ内三年祝ハ大物主神五世孫意富多多泥古命ノ_也トアリテ大囗主ノ和魂大物主命ノ孫ヲ用ヒラレタルハコノ処ノ故事ニヨリテ用ヒラレタルナレバ_決シテ大国主トヨムベク覚ユ
菅雄は云う。地主神ではない。大国主としなさい。其の理由は、大和国高市_御年神社の祝は、姓氏録の大和国未定雑姓の内、三歳祝は大物主神五世孫意富多多泥古命の後なりとあるので、大国主の和魂の大物主命の孫が用いられたのは、この処の故事によって用いられたのだから_決して大国主と読むべきと覚えなさい。

この『除蝗祭』の故事に因んで大田田根子の後裔が三歳祝に選ばれたのだから地主神を大国主と読めと、菅雄センセイは仰っているらしい。

新撰姓氏録に三歳祝が大田田根子の後裔だと、確かに書いてあるが。
三歳祝に選ばれた根拠が『除蝗祭』だという根拠は?


この書物は文化年間(1804~1818、家斉[11])に出版されたと書誌情報にある。
黒船来航が1853年。明治元年が1868年。
この書き込みは、こじつけてでも大国主に置き換えるようにゴリ押しした勢力が1804年以降に存在したことを示唆していると云えよう。
* * *
PR