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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

尾張氏・倭氏・物部氏は記紀神話に反発していた

神代の誓約から国譲りまでは倭国大乱を記したものであると、当ブログは推測する。
そして神武東征も、倭国大乱の要素を重ねているのではないかと思う。


おさらいしておくと当ブログの見解では、神武東征は無かった。
しかし北九州勢の淡路入植はあった。
初期に淡路に来た北九州勢を、記紀神話では天火明と解釈している。

神武東征が無かったとする根拠は、尾張氏と倭氏が伝えている綿津見豊玉彦を始祖に据えた系図では、市磯長尾市から世代数を数えると、神武東征の登場人物である高倉下と椎根津彦が懿徳[4]か孝昭[5]の世代になっていることだ(過去記事:椎根津彦は久比岐の海人族)。

記紀の記述と食い違う系図を伝えていることから、尾張氏と倭氏は記紀神話に迎合しなかったと考えられる。
どちらも阿曇氏に連なる海人族だ。阿曇氏をはじめとする北九州勢の描写に不満があったのかもしれない。思うに記紀の記述は、阿曇氏が発揮した影響力を矮小化している。

そして物部氏も、尾張氏・倭氏とは異なる独自の理由で、日本書紀の記述に迎合しなかったのではないかと思う。
おそらくその理由は、三輪山(御諸山)の神を大物主とすることにまつわる諸事全般だろう。この辺は入り組んだ内容になるので、次回記事からのテーマにしたい。

今回は概要だけ掻い摘んで記しておく。
ほかにも反発した氏族が存在したかもしれないが、文献において目立っているのは尾張氏・倭氏・物部氏だろう。

このうち尾張氏と物部氏を、先代旧事本紀は深く掘り下げている。尾張氏はこれにも否定的なようだが物部氏は、物部神社Webページの御由緒の感じでは大方肯定しているようだ。

物部神社 御由緒

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。

先代旧事本紀では、倭氏が抜けている。

倭氏と同じく椎根津彦を祖とする久比岐海人族の青海氏(こちらが源流と思われる)の祭祀した青海神社(越後加茂)に、賀茂別雷神社(上賀茂)・賀茂御祖神社(下鴨)の御分霊を祀ったのが794年だ。

下鴨祭神の玉依姫が、丹塗矢の霊験により上賀茂祭神の賀茂別雷を懐妊したエピソードは、玉櫛姫が神武皇后の媛蹈韛五十鈴媛を懐妊した説話()の元ネタと考えられる。

賀茂別雷神社 御神話

日本書紀 国譲り 一書第六

此大三輪之神也 此神之子 即甘茂君等 大三輪君等 又 姬蹈鞴五十鈴姬命 又曰 事代主神 化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姬 或云玉櫛姬 而 生兒姬蹈鞴五十鈴姬命 是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也

此は大三輪の神也 此の神の子 即ち甘茂君等 大三輪君等 又 姫蹈鞴五十鈴姫命 又曰く 事代主神 八尋の熊鰐(くまわに)に化け為る 三嶋溝樴姫と通じる 或いは玉櫛姫と云う 而 生む子は姫蹈鞴五十鈴姫命 是は神日本磐余彦火火出見天皇の后と為る也

古事記 神武記

故 坐日向時 娶阿多之小椅君妹名阿比良比賣 自阿以下五字以音 生子 多藝志美美命 次岐須美美命 二柱坐也 然 更求爲大后之美人 時 大久米命曰 此間有媛女 是謂神御子 其所以 謂神御子者 三嶋湟咋之女名勢夜陀多良比賣 其容姿麗美 故 美和之大物主神見感 而 其美人爲大便之時 化丹塗矢 自其爲大便之溝流下 突其美人之富登 此二字以音下效此 爾 其美人驚 而 立走伊須須岐伎 此五字以音 乃將來其矢置於床邊 忽成麗壯夫 卽娶其美人 生子 名謂富登多多良伊須須岐比賣命 亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣 是者惡其富登云事 後改名者也 故 是以 謂神御子也

故 日向に坐しし時 阿多の小椅君の妹で名は阿比良比売を娶る 自阿以下五字以音 生む子 多藝志美美命 次に岐須美美命 二柱を坐す也 然 更に大后と為る之美人を求める 時 大久米命は曰く 此間に媛女有り 是は神の御子と謂う 其の所以 神の御子と謂うは 三嶋湟咋の女で名は勢夜陀多良比売 其の容姿は麗美 故 美和の大物主神は見て感じる 而 其の美人が大便を為す之時 丹塗矢に化ける 自ら其の大便を為す之溝を流れ下る 其の美人の富登を突く 此二字以音下效此 尒 其の美人は驚く 而 立ち走る伊須須岐伎(イススキキ) 此五字以音 乃ち将に来たる其の矢を床辺に置く 忽ち麗しい壮夫に成る 即ち其の美人を娶る 生む子 名は富登多多良伊須須岐比売命と謂う 亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂う 是の者は其の富登と云う事を悪(にく)む 後に名を改める者也 故 是以 神の御子と謂う也

また、神武[1]こと神日本磐余彦なる個人は実在せず、吉備津彦と大彦を含む瀬戸内勢と、橿原勢の安寧[3]から開化[9]までの事跡を組み合わせて創作した架空の人物だろうと、当ブログは推測している。

この架空の存在である神武[1]の子である綏靖[2]の和風諡号は神渟名川耳という。大彦の子の武渟川別も「ヌナカワ」を名前に含むことから、神武[1]の家族構成は大彦のものであろうと推測する。
またヌナカワは奴奈川だろうから、母は奴奈川の姫、つまり媛蹈韛五十鈴媛のモデルは久比岐の女性であろうと推測する。

久比岐の青海氏が祭祀する青海神社と、京都の上賀茂神社・下鴨神社は、記紀が記す神武皇后の誕生話で関連づけられている。そのオリジナルである上賀茂神社・下鴨神社の御分霊を青海神社で祀り始めた794年には、青海氏は折れて、記紀神話を受け入れたものと推測する。

先代旧事本紀の成立は806年~906年のあいだと目されている。
おそらくこのとき、すでに青海氏は反発しなくなっていた。倭氏も同様だろう。

先代旧事本紀がわざわざ巻(天孫本紀)を立ててまで尾張氏と物部氏の系図を創作した目的は、記紀の作り話に反発する二氏の意を汲んだ説話を新たに追加することではなかったろうか。

結局、これでも納得しなかった尾張氏は明治まで反発していたようだ。

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