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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

神代の誓約から国譲りまでは欠史八代と時期が重なる

日本書紀を読み込むうちに至った結論なので根拠に乏しいのだが、誓約から国譲りまでの神代は、開化[9]以前の日本海側の情勢を表していると考える。

高天原は架空の場所であり、日本のどこでも高天原になり得る。つまり、エピソードによって九州だったり山陰だったり北陸だったりする。
素戔嗚の行動は出雲の動向を表す。いわば出雲国を擬人化したもので、集落のリーダーたる大国主とは似て非なる存在だ。
天照の行動は九州の動向を表す。

上記の解釈を、天照と素戔嗚の誓約に当て嵌めてみる。
誕生した宗像三女神は宗像地方を指し、もとは天照の勢力下だったが素戔嗚の勢力下へ転じたことを表す。

次に誕生した天忍穂耳をはじめとする五男神が指すものは、断定はできない。
だがしかし。
宗像の逆のパターンで、出雲の影響が強い文化圏だけれど天照の勢力下に加わった地域とするなら、山陽の播磨、吉備、安芸、周防。残る一つは日本海側の丹波が考えられる。山陽と丹波は崇神紀[10]に吉備津彦と丹波道主の遠征先として記述がある。

長男は正哉吾勝勝速日天忍穂耳といい、名前で勝ち誇っている。
吉備津彦は桃太郎のモデルといわれ、温羅(うら)と戦い勝利したと伝わる。また、鳥取県にある樂樂福神社(ささふくじんじゃ)は、吉備津彦の父である孝霊[7]が皇子らを率いて牛鬼(ぎゅうき)を退治したと伝える。
山陽と丹波は、天照の勢力が戦って勝ち取った地域だ。

樂樂福神社 由緒略記を参照されたい。

崇神紀[10]によれば、山陽と丹波は大和の勢力下で、九州のものではない。
しかし、真偽はさておき神武[1]は九州出身で、天照を皇祖神としている。九州の戦利品を大和の物にする正当性を、記紀は主張している。
そしておそらく、出雲と敵対するにあたり九州は大和と手を組んでいる。

記紀ではすぐに結着がついた誓約だが、史実だとすれば数世代に渡る。
宗像が出雲の勢力下に入った経緯は、田心姫・湍津姫と大国主の婚姻にある。これだけでも大国主ふたり分の期間が費やされた。

九州が山陽と丹波へ侵攻したことは、神逐にも相当するだろう。
素戔嗚が悪事を働いても天照ははじめ何もしなかった。出雲が若狭・越前を荒らしても九州は当初、静観した。そこに天岩戸、日食が起こる。
日食を凶兆と解釈した九州勢力は、若狭・越前を荒らしている出雲を災いと定め、これを掃討することを決めた。戦略的見地から高志へ通じるルートを出雲の東に求め、中継地になる大和と接触した。そして大和に協力させて山陽と丹波へ侵攻した。

九州が高志を気にかけた理由は、玉の素材の供給にあると推測する。

小松市 フォーラム、シンポジウム等の資料ダウンロード
フォーラム「日本海を行き交う弥生の宝石in小松」 (PDFファイル: 36.3MB)

出雲の侵攻を丹波で食い止めると同時に、出雲が日本海の航路を害する事態を想定して、琵琶湖から淀川・大阪湾を経て瀬戸内海を通すルートを確保した。

【2020/10/26 追記】

上記の打消し線部分は、2020/10/26にあげた記事『誓約の五男神は瀬戸内の寄港地』にて、自説を変更した。

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