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和様建築を見たくなって、滋賀県の西明寺を拝観したときのこと。
うろ覚えなのだが、地元タクシーの運転手さんが、大昔の彦根はハブ港だったと仰っていたと思う。曖昧な記憶だが、たぶん聞いた。
あれは五男神の天津彦根と活津彦根のことを言っておられたのではないかと思う。
西明寺は建築も庭も素晴らしい山寺でした。
神代上第六段(誓約)で誕生する五男神は、順序こそ違うが、顔ぶれは変わらない。
一書第三は五柱に熯之速日を加え、六男神としている。この熯之速日は、神代下第九段(国譲り)本伝に武甕槌の親として登場する。
神代下第九段(国譲り)の一書第二は、高皇産霊が大己貴に「當主汝祭祀者天穗日命」と言って、天穂日が大己貴を祀ることを約束する。
天穂日は、天照と素戔嗚の誓約で誕生した五男神(六男神)の一柱だ。
洲羽の伝承では、建御名方が地元の神である洩矢(守屋大臣)を打ち負かして入植したという。この伝承の元になる史実として、ふたつの可能性が考えられるだろう。
前回の要点:
狭穂彦=阿彦、狭穂姫=支那夜叉、誉津別=支那太郎、高倉下嫡流=天津甕星。
草薙剱は越前素戔嗚から子孫の丹波大己貴へ渡り、阿彦討伐に使われた。
同じ頃、科野と関東が争い、饒速日勢が科野を援けて関東勢を退けた。しかし記紀はなぜか八綱田(関東勢)が狭穂彦を討伐したと記して、丹波の勝利を横取りしている。
伊弥頭(越中西部)・三国・江沼(越前)国造は蘇我氏であり、上宮記は凡牟都和希王が継体[26]の祖と記す。