[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
3/6に「再戦時の長髄彦=国譲りの大国主」という記事を書いたが、取り消す。
たびたび出雲贔屓を非難してきたくせに、その影響下から私もまだ抜け出せていなかった。既成概念を払拭することは斯くも難しい。
磐長姫が「其生兒 必如木花之移落(其の生す兒 必ず木花の移ろい落ちるが如し)」と呪った(※)はずだが、初期天皇には長寿が多い。
仁徳[14]が最後の長寿天皇で、wikipediaによれば110才で崩じたという。
記紀は仲哀[14]を、日本武と両道入姫命(垂仁[11]皇女)の子で、成務[13]の甥と記すが、誕生年の問題が指摘されている。
孝昭[5]の和風諡号は觀松彦香殖稲(みまつひこかえしね)天皇。
皇后は尾張氏祖の世襲足媛。
科野安曇氏から越前八千矛が奪った草薙剱は天照へ献上されることなく、子の丹波大己貴に受け継がれ、垂仁の御代に丹波の大若子がこれを用いて、越中の狭穂彦・狭穂姫を討ったと、当ブログは考える。