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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

出雲は天穂日が四隅突出墳丘墓を伝えたと誤認していた?

誓約で誕生した五男神が瀬戸内航路の寄港地であるとする。
瀬戸内も広いので範囲を狭めたい。


考えるに、どんなに広めに解釈しても祝島より東だろう。祝島と姫島を結ぶ玄界灘横断航路が古くからあり、この航路を鎮める神が宇佐八幡ではないかと思う。

前回、リンクを貼らせてもらった海上保安本部の『潮流推算』によれば、祝島と姫島の間は大潮(満月と新月)でも1ノット以下だ。
対馬海流が1~1.5ノット以下で、宗像の沖ノ島(沖津島)と大島(中津宮)は50km弱の距離がある。祝島と姫島の間は30km弱なので、たぶん渡れた。


大潮時の上げ潮流(関門海峡は1時間後にピンクの矢印になる)

瀬戸内の東側を考えてみる。
まず淡路島より東は茅渟海であり、明石海峡を鎮めるのは神戸の長田神社(事代主)・生田神社(稚日女)・廣田神社(天照荒魂)ではないかと思う。

淡路島の西、小豆島と吉備児島(現在は埋め立てにより児島半島)は、古事記の国生みに登場する。大八嶋国(淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島)に続いて生む6島(児島半島、小豆島、周防大島、姫島、五島列島、男女群島)の一番目と二番目だ。

然後 還坐之時生吉備兒嶋 亦名謂建日方別 次生小豆嶋 亦名謂大野手比賣 次生大嶋 亦名謂大多麻流別 自多至流以音 次生女嶋 亦名謂天一根 訓天如天 次生知訶嶋 亦名謂天之忍男 次生兩兒嶋 亦名謂天兩屋 自吉備兒嶋至天兩屋嶋幷六嶋

よって五男神は、吉備児島を除外して、小豆島より西に坐すと考える。

2005年に、再現した古代船による実験航海が行われている。
現代の交通事情から、要所でボートによる曳航を余儀なくされているため、完璧な再現とは言えないが、目安にはなると思う。8月20日の航海日誌によれば「潮がないところで2ノット」の速度をだせるそうだ。

宇土市デジタルミュージアム 大王のひつぎ実験航海事業 航海日誌とスケジュール

12(山口県平生町)の南西15kmに祝島がある。
19(岡山県瀬戸内市)の南に小豆島の西端がある。

1ノットは1.852km/h。小豆島と祝島のあいだの航路を250kmと見積もって、運航日7日間(途中6回寄港)で、1日に航行できるのが6時間ならば、
  250/1.852/7/6=3.214
計算上は平均時速3.2ノットが必要になる。これが速すぎると断言はできないが、エンジンに頼らず実現するには潮流の力強い後押しが必須だろう。

祝島より東で、小豆島より西。
この範囲の北、中国山地の山間にある広島県三次市・庄原市・北広島町で、出雲より古い四隅突出墳丘墓が確認されている。
出雲の南にルーツを持つ人々が1世紀か2世紀始めごろに、平和的か敵対的かはわからないが出雲に流入した。

推測だが。
記紀編纂時の出雲は、遥か昔に南の人々が来たと知っていたが、正確なルーツや時期は分からなくなっていたのではなかろうか。それで、出雲の南だから山陽から来たと考え、大国主に続く為政者になったと考えたのかもしれない。
つまり当時の出雲の認識では、四隅突出墳丘墓を伝えた人々が天穂日だったのではなかろうか?

以前の記事『国譲り後も出雲は存続した』では、国譲りの段の一書第二にある高皇産霊の提案は記紀編纂時の創作であり、天穂日なる人物は実在せず、大国主の出雲は潰えてないのではないかと推測した。
隠れ去った大国主に代わって出雲を治めた天穂日は実在しないだろう。

天穂日というよりむしろ。
2世紀前半に出雲が越前に侵攻したことを考えると、出雲に四隅突出墳を伝えた人々は、一人目の大国主である可能性があるのではなかろうか?

【2020/11/20 追記】

記事を書いたときは「一人目の大国主」と思ったが、時間をおいて考えたら「素戔嗚」のほうが適切だと気づいたので、打消し線を引いた。

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