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素人が高志の昔を探ってみる ~神代から古墳時代まで~

国譲り後も出雲は存続した

出雲国譲り神話とは実際のところ、出雲が天照勢へ高志国を譲ったのであり、その後も出雲国は山陰の雄として存続した。

上の文は、ブログの書き初めの頃に書いたものとほぼ同じだが一か所、「大和へ」を「天照勢へ」に修正した。
久比岐に入って出雲軍を追い払ったのは建御雷こと九州の軍だろうとの推測による。

そして出雲へ攻め入った経津主は大和の軍だろうと推測する。
このとき出雲は久比岐・能登へちょっかいを出しており、兵力を分割していたから、初動が遅れるなどあって敗戦したのではないかと思う。


一書第二では高皇産霊が、国を譲り受ける見返りに以下の条件を提示する。
汝則可以治神事 又汝應住天日隅宮者 今當供造 即以千尋繩結爲百八十紐 其造宮 之制者 柱則高大 板則廣厚 又將田供佃 又爲汝往來遊海之具 高橋浮橋及天鳥船 亦將供造 又於天安河 亦造打橋 又供造百八十縫之白楯 又當主汝祭祀者 天穗日命 是也
巨大な宮と、海で遊ぶための浮橋と舟、打橋、白楯を造り与え、また、天穂日に大己貴を祀らせるという。大己貴はこれを承諾して避け去り、大国主の出雲はここで潰え、天穂日の出雲が誕生する。

平成12年に出雲大社の境内から宇豆柱が発掘され、巨大な宮の存在が確認された。

J-STAGE 日本考古学 島根県大社町出雲大社境内遺跡の発掘調査の成果
巨大柱遺構の年代は,遺構内出土土器から12世紀後半から13世紀代の年代が考えられ,また使用された木材は,炭素同位体比による年代測定の結果西暦1215~1240に伐採された木材であるという結果が得られており,文献史料との対応関係から宝治2(1248)年に造営された本殿跡である可能性が高い。

天穂日は、天照と素戔嗚の誓約により誕生した五男神の次男だ。
三女神が宗像を指すなら五男神も地域を指すだろうと考え、山陽の播磨、吉備、安芸、周防と日本海側の丹波ではないかと推測した。

記紀は、出雲へ遣わされた天穂日が大国主に阿り、長く報告しなかったと記す。
出雲国風土記では、きっちり仕事して報告も怠らなかったと記すらしい。

天穂日が大和の意向に添う仕事をしていたら、
出雲国風土記の文章は高志を見下すニュアンスにならなかっただろう。
また出雲振根(崇神[10]紀)も、大和へ神宝を献じた弟に、殺すほどまでは腹を立てなかっただろう。

のちの展開から見て、天穂日は満足な仕事はしてないと思われる。
だがしかし。
そもそも一書第二が記す高皇産霊が提示した見返りは、国譲り当時の提案なのか?

平成12年に発見された宇豆柱は鎌倉時代の遺構だ。
巨大な宮の建造が、記紀編纂後から開始された可能性はまだ残っている。
高皇産霊の提案は記紀編纂時の創作であり、天穂日なる人物は実在せず、大国主の出雲は潰えなかった可能性もあるだろう。

記紀編纂当時の出雲は、高志を勢力下に置いていたことを強調して、高志より出雲は上位であると主張していた。
だが、天皇のワントップ体制を目指していた大和は、高志と出雲に上下をつけることを嫌った。それで、高志を支配していた大国主の出雲は潰えたとする物語を創作したのではなかろうか?

【2021/2/17 追記】

2021/2/17にあげた記事『道臣が忍坂で討った土雲八十建=八千矛』にて自説を変更した。
神武東征が、神代の誓約から国譲りまでと同様に、倭国大乱を表すと解釈して、「国見岳の八十梟帥=神逐の素戔嗚」「忍坂の土雲八十建=八千矛」の自説を導き出した結果、「八千矛は越前の勢力」であると推測した。
2021/2/17現在の当ブログは、久比岐は一時たりとも出雲の勢力下には入ってないと考えている。

修正前:ことを強調して
修正後:ことを偽装して

修正前:高志を支配していた
修正後:高志を支配していたと法螺を吹く

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