事代主を高志に関連づけるならば、事代主の後裔とされる媛蹈韛五十鈴媛の系譜について上手い解釈を考案せねばなるまい。
媛蹈韛五十鈴媛は事代主の娘であり、神武[1]の皇后であり、綏靖[2]の母だ。
綏靖[2]の和風諡号は神渟名川耳といい、名前に「ヌナカワ」を含む。
同じく「ヌナカワ」を名前に含む人物に、武渟川別が思い当る。
武渟川別の父は大彦であり、母は
崇神紀[10]の記述から推測して倭迹々姫であり、これは奴奈川姫の縁者にあたる久比岐の女性であろうと推理した。
綏靖[2]も武渟川別も、母が高志に所縁ある女性と考えられ、この共通性から、綏靖[2]は武渟川別がモデルではないかと推測する。
綏靖[2]は、欠史八代を扱う日本書紀巻第四のなかで
唯一のエピソードを持つ。
異母兄の手硏耳が弟を害そうと企てたので、同母兄の神八井耳と共謀して殺したという説話だ。
手研耳は「行年已長 久歷朝機」とあり、政治の経験値が高い人物のようだ。
このエピソードを大彦の周辺に当て嵌めてみる。
大彦は、九州勢が大和に設置した出先機関の責任者だったのではないかと推理した。
手研耳は、神武[1]が九州にいた頃に吾平津媛との間に儲けた子だ。
よってそのモデルも、九州から大和へ入植した人物と考えられる。また「本乖仁義」とあり、本(もと)は仁義に乖(もと)ると訳せることから、大和にとって有難くない考えの持ち主と思われる。
当時の九州勢には積極的に大和を支配しようとする勢力がいて、これが手研耳のモデルではないかと推測する。
この勢力を、大彦と武渟川別が抑えたのだろう。
もし彼らが抑えていなければ、大和は九州に従属する一地方になっていたかもしれない。よってこの功績を称えて、武渟川別を神渟名川耳(綏靖[2])として皇統に組み入れたのではないかと思う。
この解釈では、神武[1]は大彦である。
后の媛蹈韛五十鈴媛と継嗣の神渟名川耳については大彦がモデルだろうと思う。
東征の序盤に神武が滞在した
吉備高嶋宮は九州の出先機関であり、その責任者が吉備津彦ではないかと推理した。
また、
欠史八代が新天地を求め他の土地へ侵攻したとも推理した。
これらを総合して考えると神武[1]は、安寧[3]以降の事跡に吉備津彦と大彦を合成して創作した架空の人物ということになる。
ただし確証はないのであしからず。
根拠としては弱いが。
安寧[3]は和風諡号を磯城津彦玉手看といい、名前に「磯城」を含む。
3代目以降の天皇が磯城一族の男子であることを示している可能性があると思う。
【2020/11/26 追記】
執筆当時は「神武[1]は実在しない」説に確信を持てなかったが、『椎根津彦は久比岐の海人族』の考察を経て、現在は確信している。