【2021/2/20 自説変更(詳細は末尾)】
変更前:大田田根子は大国主の曾孫かもしれない
変更後:大田田根子は素戔嗚の曾孫かもしれない
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媛蹈韛五十鈴媛と似た伝承を持つ大田田根子の系譜について考える。
日本書紀の崇神紀[10]にある大田田根子の自己紹介は「父曰大物主大神 母曰活玉依媛 陶津耳之女 亦云 奇日方天日方武茅渟祇之女也」だ。
陶津耳(奇日方天日方武茅渟祇)の娘である活玉依媛と大物主のあいだの子という。
古事記は「僕者 大物主大神娶 陶津耳命之女活玉依毘賣 生子名櫛御方命之子 飯肩巢見命之子 建甕槌命之子」となっている。
陶津耳の娘である活玉依毘賣と大物主のあいだの子が櫛御方、その子が飯肩巣見、その子が建甕槌で、その子であるという。
奇日方(くしひかた)と櫛御方(くしみかた)、武茅渟祇(たけちぬつみ)と建甕槌(たけみかづち)は音が似ている。語り伝えるうちに奇日方天日方武茅渟祇が三分割されて櫛御方・飯肩巣見・建甕槌になったのではなかろうか。
相違点は、日本書紀は奇日方天日方武茅渟祇を陶津耳と同一視するが、古事記は櫛御方・飯肩巣見・建甕槌を陶津耳の後裔(孫・曽孫・玄孫)とすること。
共通点は、大田田根子が大物主の血を引き、大物主は出雲に由来する神であること。
よって
大国主の血を引く人物が近畿に住み、その子孫が大田田根子と考える。
そして、近畿に住みついた
大国主の血を引く人物の子孫を探すという物語の展開から、大和はこの人物が移住してきたことを認知していたと考える。
さらに宇摩志麻遅が出雲を攻めたとき(国譲り)、近畿に居る大国主の子孫を問題視しなかったことから、移住者はごく少数で、且つ出雲とは絶縁しており、このことも大和は認識していたと考える。
以上の条件を満たすストーリーを創作してみた。
九州勢が越前・若狭から出雲を追い払ったとき(逐降・神逐)、越前・若狭の女性と当時の
大国主のあいだに生まれた子がいた。
出雲による統治は越前・若狭の人々にとって悪しきものだったので、その悪感情が
大国主の血を引く子へ向く恐れがあった。
そこで九州軍はこの子を保護して大和へ連れて行き、育てたのではないか。
この子の子が奇日方天日方武茅渟祇、その子が大田田根子。
樂樂福神社 由緒略記
樂樂福神社の伝承が逐降(神逐)を指すのであれば、孝霊[7]の頃の出来事だ。
越前・若狭の女性と
大国主の子が孝元[8]世代とすれば、奇日方天日方武茅渟祇は開化[9]世代、大田田根子は崇神[10]世代となり、世代的には合致する。
ただし確証はないのであしからず。
【2021/2/20 追記】
2021/2/17にあげた記事『道臣が忍坂で討った土雲八十建=八千矛』にて自説を変更した。
神武東征が、神代の誓約から国譲りまでと同様に、倭国大乱を表すと解釈して、「国見岳の八十梟帥=神逐の素戔嗚」「忍坂の土雲八十建=八千矛」の自説を導き出した結果、「八千矛は越前の勢力」であると推測した。
つまり八千矛は大国主ではなく、神逐の素戔嗚と同一である可能性がある。
この記事は大田田根子と越前の神逐に関連があるか検討したものであり、この仮説を肯定するとしても、越前の八千矛との繋がりを認めたことにはなるが、出雲の大国主との関連を認めることにはならない。