【2021/3/22 自説変更(詳細は末尾)】
変更前:大彦と吉備津彦は九州人
変更後:大彦がいる勢力のルーツは九州
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日本書紀は、大彦を孝元[8]の第一子、吉備津彦を孝霊[7]の庶子と記す。
また崇神紀[10]には四道将軍として、大彦を北陸道へ、吉備津彦を山陽道へ派遣したと記す。
大彦の北陸道派遣は、国譲り神話の建御雷こと天香山に相当すると思われる。
吉備津彦の山陽平定は、天照と素戔嗚の誓約において天照が五人の息子を得たこと、及び神逐に相当するだろう。
天照と建御雷は九州勢として書かれている。
よって系譜とは異なるが、大彦と吉備津彦は九州人である可能性がある。
吉備津彦の山陽平定は、神武東征の一部も担っているかもしれない。
安芸の埃宮と吉備の高嶋宮は、九州勢が瀬戸内海を安全な航路として利用するために設置した拠点と考えられないか。高嶋宮の責任者が吉備津彦だったのではないか?
大和にも九州の出先機関が設置されただろう。
神武に同行して九州から来たとされる
椎根津彦、天種子(天児屋の孫)、道臣と大来目などは、この出先機関を造営するために近畿入りしたのではないか。この出先機関の責任者が大彦だったのではないか?
この場合、大和の王家である橿原勢および饒速日勢は、近畿の在来勢力ということになる。神武東征はなかったが、九州勢の近畿入植はあった。
当時の力関係は九州>近畿だった。
しかし倭国大乱を乗り越えた九州勢は、むやみに他の地域を支配することを好まなかったようだ。古代大和の中枢はあくまでも橿原勢と饒速日勢だった。
ただ大和の心情としては、九州勢の存在はプレッシャーだったろう。
大陸との交易により培われた先進文化を目の当たりにして、西に港を持つ重要性を肌身で理解した。西へ進出したいと思っただろう。
そんな折に、出雲が久比岐へ進出した。
大和はこれを、西へ進出する好機と捉えた。いま出雲へ侵攻しても、これを快く思わない九州勢は容認すると考え、経津主こと大和軍を出雲へ差し向けた。
大和の読み通り、大和による出雲への侵攻を許容した九州勢は、手隙になっている久比岐・能登へ武御雷こと九州軍を差し向け、残っている出雲の残党を始末した。
出雲軍と戦う大和軍に多少は加勢したかもしれないが、主体はあくまでも大和だ。
結果、大和は出雲に勝利した。大金星ではなかろうか。
この勝利により大和は宗像地方の支配権を出雲から奪ったのではないかと推測する。
【2020/11/14 追記】
上記の打消し線部分は、2020/11/14にあげた記事『天火明は瀬戸内航路の開通まもなく入植した九州人を指す』に関連して自説を変更した。大彦の氏族と同時期に近畿に入植した氏族は、記紀が天火明の後裔と記す尾張氏であると考える。
【2021/3/22 追記】
日本書紀の神武東征は、大和を倭国大乱の敗者として書いている。これを受け、瀬戸内の情勢を想定しなおす必要が生じた。吉備勢は九州勢かもしれないし在来勢力であるかもしれない。