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まず、当ブログのスタンスをおさらいしておく。
古事記の国譲り神話は全くの虚偽であり、建御名方は出雲大国主の子ではないと考える。根拠は、八千矛が越前平野の首長と考えられることや、出雲国風土記ですら大国主の子に建御名方を含めないことだ(過去記事:道臣が忍坂で討った土雲八十建=八千矛)。
建御名方が久比岐勢の血筋であることは確定として。
父方について考えるなら、建御名方がいつの時代を生きたかが重要だろう。
神逐以前ならば、松本の豪族が候補たりえる。
神逐以後ならば、淡路勢が候補たりえる。
糸魚川市 奴奈川姫の伝説
奴奈川姫伝説その1(『西頚城郡の伝説』より)
10.市野々(いちのの)の地名
――略―― 奴奈川姫の夫は松本の豪族であったが、大国主命との間に争を生じた。豪族は福来口で戦い、敗けて逃げ、姫川を渡り、中山峠に困り、濁川(にごりがわ)の谷に沿うて、市野々に上って来た。登り切って、後を望み見た所が、今の「覗戸(のぞきど)」である。大国主命に追いつめられ、首を斬られてしまった。 ――略――
いずれにせよ倭国大乱の勝者側に属する建御名方が、山陰の出雲を制圧するタイミングで、建御雷と戦う理由は無い。
古事記の国譲りは虚偽を書き連ねた悪書だと思う。
建御名方が平和的に科野・諏訪へ行く理由はいくらでもある。
引用した奴奈川姫の前夫の伝承や、母の黒姫が科野北端の出身という伝承が久比岐にあり、考古学でも出土土器の傾向から、弥生中期以降には久比岐と北科野に交流があったと推測されている。
新潟市 平成28年度 史跡古津八幡山遺跡 企画展・講演会等の記録 信濃川をめぐる弥生時代の越後と信濃の交流 [PDF]
また、先代旧事本紀の国造本紀(※)は、科野国造を神八井耳の孫と記す。神八井耳は綏靖[2]の同腹の兄だ。
綏靖の「神渟名川耳」と云う和風諡号から、綏靖の兄である神八井耳は淡路勢の大彦が久比岐女性との間に儲けた子と、当ブログは推測する。
科野國造
瑞籬朝(崇神)御世 神八井耳命孫建五百建命 定賜國造
可能性のひとつに「神八井耳の孫の建五百建=建御名方」説もあるだろう。
諏訪の伝承によれば建御名方は、洲羽の豪族であるモリヤ(洩矢神)を討伐した。 諏訪には守屋山があり、建御名方が天から降り立った場所と伝わる。
諏訪大社上社の神長官を、代々守矢氏が継承した。
そして物部守屋の次男の武麿が丁未の乱(587年)に敗れ、洲羽に落ち延びたと伝わる。この武麿は守矢氏の養子として守矢氏の系譜に名を連ねる。
諏訪湖から太平洋へ流れ出る天竜川の下流は遠江国であり、先代旧事本紀の国造本紀によれば遠江国造は物部氏だ。武麿が同族を頼って遠江へ逃れ、天竜川を登った可能性は大いにあると思う。
遠淡海國造
志賀髙穴穂朝(成務) 以物部連祖伊香色雄命兒印岐美命 定賜國造
物部氏は饒速日勢であり、祖先に兄磯城がいる。
建御名方は久比岐勢であり、久比岐海人族の椎根津彦が神武と共闘して兄磯城を討伐したと、日本書紀の神武東征は記す。
諏訪に伝わる、建御名方がモリヤを討伐したエピソードは、神武東征の兄磯城討伐を伝えたものだろう。
人文学はハイヌウェレ型やらバナナ型やら、神話が山も海も越えて遠く伝播したと教えている。ならば、近畿の逸話が諏訪盆地に伝播しても不思議はなかろう。
さらに。
古事記の国譲り(※)は、建御雷に敗れた建御名方が、今後は諏訪の地を出ないと約束したと記すが、これは、諏訪に落ち延びた武麿が大和朝廷と交わした約束を、建御名方が発言したように偽ったのではないかと、当ブログは疑っている。
而 投離者 即逃去 故 追往 而 迫到科野國之州羽海 將殺 時 建御名方神白 恐 莫殺我 除此地者不行他處 亦不違我父大國主神之命 不違八重事代主神之言 此葦原中國者隨天神御子之命獻
而 投げ離せば 即ち逃げ去る 故 追い往く 而 科野国の州羽海に迫り到る 将に殺さん 時 建御名方神は白す 恐れるも 我を殺す莫(なか)れ 此地を除けば他処へ行かず 亦た我父の大国主神の命を違わず 八重事代主神の言を違わず 此の葦原中国は天神の御子の命の隨に献じる
以上が、当ブログが古事記の国譲りを悪書と断じる根拠だ。
―――諏訪神話メモ―――
諏訪史料データベース 諏訪信重解状
諏訪信重解状より抜粋(要注意:句読点をスペース区切りに変換)
一 守屋山麓御垂跡事
右 謹檢舊貫 當砌 昔者守屋大臣之所領也 大神天降御之刻 大臣者奉禦明神之居住 勵制止之方法 明神者廻可爲御敷地之祕計 或致諍論 或及合戰之處 兩方難决雌雄 爰明神者持藤鎰 大臣者以鐵鎰 懸此所引之 明神卽以藤鎰 令勝得軍陣之諍論給 而 間令追罰守屋大臣 卜居所當社 以來 遙送數百歲星霜 久施我神之稱譽於天下給 應跡之方々 是新哉 明神以彼藤鎰 自令植當社之前給 藤榮枝葉 号藤諏訪之森 毎年二ヶ度 御神事勤之 自尓以來 以當郡名諏方 爰下宮者 當社依夫婦之契約 示姫大明神之名 然而 當大明神 若不令追出守屋給者爭 兩社卜居御哉 自天降之元初 爲本宮之條 炳焉者哉
一 守屋山麓御垂跡事
右 謹み旧貫(きゅうかん、古い慣習)を検める 当砌(みぎり) 昔は守屋大臣の所領也 大神が天降る御之刻 大臣は明神之居住まうを禦(ふせ)ぎ奉る 制止之方法を励ます 明神は御敷地と為す可き之祕計を廻らす 或いは諍論(じょうろん、論争)を致す 或いは合戦に及ぶ之処 両方が雌雄を决し難し 爰(ここ)に明神は藤鎰を持つ 大臣は鉄鎰を以て 此所に懸け之を引く 明神は即ち藤鎰を以て 軍陣の諍論(論争)に勝ち得せ令め給う 而間 守屋大臣を追罰せ令め 居所を当社に卜う 以来 遙かに数百歲星霜を送る 久しく我神の称誉(しょうよ)を天下に施し給う 応跡之方々 是新哉 明神は彼の藤鎰を以て 自ら当社の前に植え令め給う 藤は枝葉を栄える 藤諏訪の森と号する 毎年二ヶ度 神事を御し之に勤める 尓(それ)より以来 以て郡名を諏方と当てる 爰(ここ)に下宮の者 当社は夫婦の契約に依り 姫大明神の名を示す 然而 当大明神 若し守屋を追い出さ令め給わずならば争い 両社は居御を卜う哉 天より降る之元初 本宮の条を為す 炳(あきらか)焉者哉