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高倉山の物見により認識した敵(国見岳・墨坂・兄磯城)を討伐した神武の正体は淡路勢だろう。
当ブログは、神武東征の国見岳以降は神代の神逐から国譲りに相当すると考える。
それ以前の敵(名草戸畔・丹敷戸畔・兄猾)を討伐した神武は、対応するエピソードが神代に見当たらないので、橿原勢か饒速日勢か、どちらかわからないが大和在来の勢力ではないかと思う。
悩ましいのが赤銅八十梟帥(※)だ。
赤銅八十梟帥は、磯城八十梟帥と同じく弟猾の進言に登場して、読者の脳内では、高尾張邑の土蜘蛛(※)と同一視される。
弟猾の進言にて:赤銅八十梟帥
時 弟猾又奏曰 倭國磯城邑 有磯城八十梟帥 又高尾張邑 或本云葛城邑也 有赤銅八十梟帥 此類皆欲与天皇距戰
時 弟猾が又奏し曰く 倭国磯城邑 磯城八十梟帥有り 又 高尾張邑 或る本に云う葛城邑也 に赤銅八十梟帥有り 此の類は皆が天皇と距(へだた)り戦を欲する
長髄彦再戦後の残党狩りにて
又 髙尾張邑 有土蜘蛛 其爲人也 身短而手足長 与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之 因改号其邑曰葛城
又 高尾張邑に 土蜘蛛有り 其の為人(ひととなり)也 身は短くて手足は長し 侏儒の与(仲間)に相い類する 皇軍は葛網を結びて掩い襲い之を殺す 因て其の邑の号を改め曰く葛城
物語上の扱いの比重からして、赤銅八十梟帥は大国主ではあり得ない。そうすると消去法で、天津甕星が残る。
国譲り 本伝(※)
於是 二神 誅諸不順鬼神等 一云 二神 遂誅邪神及草木石類 皆已平了 其所不服者 唯 星神香香背男耳 故 加遣倭文神建葉槌命者 則服 故 二神登天也 倭文神 此云斯圖梨俄未 果以復命
於是 二神 諸(もろもろ)の順(したが)わぬ鬼神等を誅する 一に云う 二神 遂に邪神及び草木石類を誅する 皆已に平げ了(終)わる 其の所の不服者 唯 星神香香背男のみ 故 倭文神(しとりがみ)建葉槌命なる者を加え遣わす 則ち服する 故 二神は天に登る也 倭文神 此れ云う斯図梨俄未 果たして以て復命(ふくめい、報告)する
国譲り 一書第二(※)
天神 遣經津主神武甕槌神 使平定葦原中國 時 二神曰 天有惡神 名曰天津甕星 亦名天香香背男 請先誅此神 然後 下撥葦原中國
天神 經津主神と武甕槌神を遣わす 葦原中国を平定せ使む 時 二神は曰く 天に悪神有り 名は曰く天津甕星 亦の名は天香香背男 先に此の神を誅するを請う 然後 下り葦原中国を撥する
赤銅八十梟帥と天津甕星を積極的に結びつける根拠を、当ブログは見つけてない。
だから、あくまで消去法で考え得る仮説だ。
熱田神宮の大宮司家だった尾張氏のルーツが高尾張邑だという説がある。
尾張氏は北九州の安曇氏の同族をうたう系図をいまに伝えているので、発祥の地は畿内に無いと思う。しかし近畿に来たのは、尾張氏出身の世襲足媛が皇后になった孝昭[5]以前と考えられる。また、高尾張邑の土蜘蛛討伐は兄磯城討伐より後だから、物部氏出身の欝色謎が皇后になった孝元[8]辺りの頃の出来事と考えられる。
つまり孝昭5]から孝元[8]の間、尾張氏が畿内の高尾張邑に居を構えていた可能性はゼロではない。
そして、国譲りの一書第二の記述「天有惡神 名曰天津甕星 亦名天香香背男」によれば、天津甕星は高天原に由来する神だ。
日本書紀の天孫降臨(※)は尾張氏を、天香山(一書第六)またはその父の火明(本伝と一書第八)の後裔と記し、天孫族とする。
高尾張邑(葛城邑)の土蜘蛛と尾張氏を関連づける説では、葛木坐火雷神社(笛吹神社)が取り沙汰されがちだ。現代では火雷大神と天香山命を合祀している。
葛木坐火雷神社(笛吹神社) 御祭神
また尾張氏は、藤原南家の季範が継承する平安時代後期まで、熱田神宮の大宮司家だった。この熱田神宮の祭神である熱田大神は正体不明だ。現代では天照だとか草薙剣だとか云うが、これらは明治期に神道の諸般が政府主導で改竄されてから大々的に名乗りだしたらしい。江戸時代までは正体不明だった。
果たして、熱田大神=天津甕星=赤銅八十梟帥の式は成立するか否か?
仮に成立するならば。
熱田神宮にて草薙剣を祀る目的は、祭神の天津甕星を抑えるためだろうか。
天津甕星は常陸の大甕神社に地主神として祀られている。
この神社は主神として、天津甕星を討伐した建葉槌も祀っている。
大甕神社 由緒
国譲りの一書第二は、天津甕星討伐を記したのち唐突に、今は斎主神(経津主)が香取に坐すと記す。一見、脈絡なく香取神宮の話題になったように見えるが、これは天津甕星が常陸国に坐すから、南の下総国の香取に経津主が坐して抑えるという意味に解釈できるだろう。
天津甕星には抑えが必要なのかもしれない。
請先誅此神 然後 下撥葦原中國 是時 齋主神 號齋之大人 此神今在于東國檝取之地也
先に此の神を誅するを請う 然後 下り葦原中国を撥する 是時 斎主神 號は斎之大人 此の神は今し東国檝取(香取)の地に在る也
日本武(ヤマトタケル)は東征のときに草薙剣を携え、常陸を海路で通過した。
大甕神社は、現代の地図では海岸線から1.7kmほど西にある。
国立国会図書館デジタルコレクション 日本書紀 : 国宝北野本. 巻第7 :コマ番号24/39
爰 日本武尊 則從上總轉入陸奧國 時 大鏡懸於王船 從海路於葦浦 横渡玉浦 至蝦夷境
爰(ここに) 日本武尊 則ち上総従(ヨ)り転じ陸奥国に入る 時 大鏡は王船に懸ける 海路従(ヨ)り葦浦に(カヘリ) 玉浦に横渡り 蝦夷の境に至る
東征を終えた日本武は、尾張氏の宮簀媛を娶り尾張に滞在する。そして宮簀媛の家に剣を置き残して、荒神を退治するため近江の五十葺山へ行き、蛇に化けた山神に出くわすも正体を見抜けず、雹や霧など妨害に遭って体調を崩す。病を患い尾張に還るが、宮簀媛の家に入らず、伊勢へ行き亡くなる。
熱田大神=天津甕星=赤銅八十梟帥の式が成立するなら、尾張氏の宮簀媛が絡む日本武の死について、通説とは異なる面白い解釈ができそうだ。なにしろ宮簀媛が日本武の味方ではない可能性があるのだから。
しつこく念を押すが、今回は消去法で導き出した根拠の希薄な仮説だ。
迂闊に真に受けてはいけない。
【2021/05/02 追記】
2021/05/02の記事『狭穂彦(阿彦峅)の謀反は濡れ衣』にて自説を変更した。
喚起泉達録を考慮した結果、高尾張邑は越中に在ったと考える。
【2021/05/08 追記】
上記の変更に関連して記事タイトルを変更。
変更前:高尾張邑の赤銅八十梟帥=?
変更後:高尾張邑の赤銅八十梟帥=天津甕星